す」
 栗原は、若い横瀬から、スウィッチの箱をうけとると一人で帰って行ったのだった。
「さあ、こっちへ、入んねえ」
「はあ――」
「わし[#「わし」に傍点]は、鳥渡《ちょっと》、お前さんに、見て貰いてえものがあるんだ」
「俺に、判るかなァ」
「もの[#「もの」に傍点]は、これなんだ」わし[#「わし」に傍点]は、机の抽斗《ひきだ》しの奥から、新聞紙にくるんだものを、出してきた。
「この硝子《ガラス》で出来たものはなんだね」わし[#「わし」に傍点]は、それを横瀬に手渡した。
「これは、注射器の一部分ですよ」
「注射器? そうだろうな、わし[#「わし」に傍点]も、そう思った。それで、何の注射器か、お前さんに判らないかい」
「さァ――」横瀬は、モシャモシャ頭髪《かみのけ》を、指でゴシゴシ掻《か》いた。「注射器は判るが、尖端《さき》についている針が無いから、見当《けんとう》がつかねえ」
「じゃ、此処《ここ》んとこを見て呉れ。この注射器の底に、ほんのり茶っぽいものが附いているが、これは、なんて薬かい」
「うん、なんか附いてはいるが――」若い男は注射器を、明り窓の方に透《す》かして、その茶色の汚点《おてん》に眺め入った。「電灯は点《つ》きませんか」
「生憎《あいにく》、この合宿じゃ、六時にならないと、点かないんだ。まだ三十分も間があるよ」
 初夏《しょか》の夕方は、五時半を廻っても、まだ大分明るかった。
「さあ、わかりませんね。こんなに分量が少くちゃ見当がつかない。薬品のようでもあり、血痕《けっこん》のようでもあり……」
 わし[#「わし」に傍点]は、グッと唾《つば》を呑みこんだ。
「もう一つ、見て貰いたいものがある」わし[#「わし」に傍点]は、新聞紙包みの中から、もう一つの品物をとりだした。「これは何かね」
「こんなもの、どっから持って来たんです」横瀬は、ピカピカ光る、その外科道具のようなものを手に取上げ、ニヤニヤ笑いだした。
「何に使う品物かね」わし[#「わし」に傍点]は、横瀬の質問には答えようとせず、同じことを、聞きかえしたのだった。
「一口に云えば――」と、わし[#「わし」に傍点]の顔をジロリと見て、「子宮鏡《しきゅうきょう》という、産婦人科の道具だね」
「よし、判った」わし[#「わし」に傍点]は、ピカピカするそれを、横瀬の手から、ひったくるようにして、元の新聞紙の中に、包んでしまった。
「いや、御苦労だった」と、わし[#「わし」に傍点]は挨拶《あいさつ》をした。「ところで、もう一つだけ、お前さんに見て貰いたいものがあるんだが」
「あるんなら、早く出しなせえ」
 横瀬は、面倒くさそうに、云った。
「ここには、無いんだ。ちょっと、近所まで附合ってくれ」
「ようがす。ドッコイショ」
 横瀬は、「ひびき」を一本、衣嚢《ポケット》から出して口に銜《くわ》えると、火も点けないで、室内をジロジロと、眺めまわした。
「何を見てるんだ」わし[#「わし」に傍点]は、訊《き》いた。
「マッチは無いのかね」と彼は云った。


     3


 合宿の門を出ると、溝《どぶ》くさい露路《ろじ》に、夕方の、気ぜわしい人の往来《ゆきき》があった。初夏とは云っても、遅《おく》れた梅雨《つゆ》の、湿《しめ》りがトップリ、長坂塀《ながいたべい》に浸《し》みこんで、そこを毎日通っている工場街の人々の心を、いよいよ重くして行った。
 道では、逢う誰彼《だれかれ》が、挨拶をして行った。
 向うから、見覚えのある若い女が、小さい風呂敷包みを抱《かか》えてやってきた。
「お前さん」と其の女は、わし[#「わし」に傍点]の連れを、チラリと睨《にら》みながら、云った。「これから、何処へゆくんだい」
「お前こそ、どこへ行くんだい」
「ふン、見れば判るじゃないか。今夜は、徹夜作業があるんだよ」
「夜業か。まァしっかり、やんねえ」
「お前さんの方は、どこへ行くのさァ」その女は、一歩近よって、云った。
「ちょいと、この仁《じん》と、用達《ようた》しに」
「そうかい、あのネ」女は、口を、わし[#「わし」に傍点]の耳に近づけて、連れに聞かせたくない言葉を囁《ささや》いた。
「……」わし[#「わし」に傍点]は、黙って、肯《うなず》いた。
 女に別れると、後から、附いてくる横瀬がわし[#「わし」に傍点]に声をかけた。
「今の若いひと[#「ひと」に傍点]は、なかなか、美《い》い女ですネ」
「そうかね」
「何て名前です」
「おせい」
「大将の、なにに当るんです」
「馬鹿!」
 露路を二三度、曲った末に、わし[#「わし」に傍点]達は、目的の家の前へ来たのだった。
 わし[#「わし」に傍点]は、雨戸を引かれた、表の格子窓《こうしまど》に近づいて、家の内部の様子を窺《うかが》った。幸《さいわ》いこのところは
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