、露路裏の、そのまた裏になっている袋小路《ふくろこうじ》のこととて、人通りも無く、この怪《あや》しげな振舞《ふるまい》も、人に咎《とが》められることがなかった。とにかく、家は留守と見えて、なんの物音もしなかった。わし[#「わし」に傍点]は、連《つ》れを促《うなが》して、裏手に廻った。
 勝手元の引戸《ひきど》に、家の割には、たいへん頑丈《がんじょう》で大きい錠前《じょうまえ》が、懸《かか》っていた。わし[#「わし」に傍点]は、懐中《ふところ》を探って、一つの鍵をとり出すと、鍵孔《かぎあな》にさしこんで、ぐッとねじった。錠前は、カチャリと、もの高い音をたてて、外れたのだった。
 わし[#「わし」に傍点]は、後を見て、横瀬に、家の中へ入るように、目くばせをした。
 障子《しょうじ》と襖《ふすま》とを、一つ一つ開けて行ったが、果して、誰も居なかった。若い女の体臭《たいしゅう》が、プーンと漂《ただよ》っていた。壁にかけてあるセルの単衣《ひとえ》に、合わせてある桃色の襦袢《じゅばん》の襟《えり》が、重苦しく艶《なま》めいて見えた。
「いいのかね。こう上りこんでいても」
 横瀬は、さすがに、気が引けているらしかった。
「叱《し》ッ――」わし[#「わし」に傍点]は、睨《にら》みつけた。
 わし[#「わし」に傍点]は、逡巡《しゅんじゅん》するところなく、押入をあけた。上の段に入っている蒲団《ふとん》を、静かに下ろすと、その段の上に登った。そして、一番端の天井の板を、ソッと横に滑らせた。そこには、幅一尺ほどの、長方形の、真暗な窖《あなぐら》がポッカリ明いた。そこでわし[#「わし」に傍点]は、両手を差入れて、天井裏を探《さ》ぐったが、思うものは、直ぐ手先に触れた。手文庫《てぶんこ》らしい古ぼけた函《はこ》を一つ抱《かか》え下ろしてきたときには、横瀬は呆気《あっけ》にとられたような顔をしていた。
 わし[#「わし」に傍点]は、急製の薄っぺらな鍵を、紙入の中から取出すと、その手文庫を、何なく開くことに、成功したのだった。その中には、貯金帳や、戸籍謄本《こせきとうほん》らしいものや、黴《かび》の生えた写真や、其他《そのた》二三冊の絵本などが入っていたが、わし[#「わし」に傍点]が横瀬の前へ取出したものは、手文庫の一隅《いちぐう》に立ててあった二〇※[#全角CC、1−13−53]入《いり》の硝子壜《ガラスびん》だった。それには、底の方に、三分の一ばかりの黒い液体が残っていた。
「さァ、こいつだ」わし[#「わし」に傍点]はソッと壜を横瀬に渡した。「最後に、お前さんから、教えて貰いたいのは」
「そうだね、これは――」横瀬は、十|燭《しょく》の電灯の光の下に、小さい薬壜を、ふってみながら、いつまでも、後を云わなかった。
「判らねえのかい」
「うんにゃ、判らねえことも、ねえけれど」
「じゃ、何て薬だい」
「そいつは、云うのを憚《はばか》る――」
「教えねえというのだな」
「仕方が無い。これァ薬屋仲間で、御法度《ごはっと》の薬品なんだ」
「御法度であろうと無かろうと、わし[#「わし」に傍点]は、訊《き》かにゃ、唯《ただ》では置かねえ」
「脅かしっこなしにしましょうぜ、組長さん。そんなら云うが、この薬の働きはねえ、人間の柔い皮膚を浸蝕《しんしょく》する力がある」
「そうか、柔い皮膚を、抉《えぐ》りとるのだな」
「それ以上は、言えねえ」
「ンじゃ、先刻みせた注射器の底に残っていた茶色の附着物《ふちゃくぶつ》は、この薬じゃなかったかい」
「さァ、どうかね。これは元々茶褐色の液体なんだ。ほら、振ってみると、硝子のところに、茶っぽい色が見えるだろう」
「それとも、やっぱりあれは、血のあとか。いや大きに、御苦労だった。こいつは、少ないが、当座《とうざ》のお礼だ」
 そう云って、わし[#「わし」に傍点]は、十円|紙幣《さつ》を、横瀬の手に握らせ、今日のことは、堅く口止《くちど》めだということを、云いきかせたのだった。


     4


 いよいよ、夜は更《ふ》けわたった。
 月のない、真暗な夜だった。風も無い、死んだように寂《さび》しい真夜中《まよなか》だった。
 かねて手筈《てはず》のとおり、工場の門衛番所に、柱時計が十二の濁音《だくおん》を、ボーン、ボーンと鳴り終るころ、組下《くみした》の若者が、十名あまり、集ってきた。わし[#「わし」に傍点]は、一と通りの探険注意を与えると、一行の先頭に立ち、静かに、構内《こうない》を、第九工場に向って、行進を始めたのだった。地上を匍《は》うレールの上には、既に、冷い夜露《よつゆ》が、しっとりと、下りていた。
「電纜工場《ケーブルこうば》は、夜業をやってるぜ」
「満洲へ至急に納めるので、忙しいのじゃ」
 誰かの声に、そっちを見ると、電
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