纜工場だけが、睡り男の心臓のように、生きていた。高い、真黒な大屋根の上へ、鉛《なまり》を鎔《と》かす炉《ろ》の熱火《ねっか》が、赫々《あかあか》と反射していた。赤ともつかず、黄ともつかぬ其《そ》の凄《すさ》まじい色彩は、湯のように沸《たぎ》っている熔融炉《ようゆうろ》の、高温度を、警告しているかのようであった。
「組長さん」組下の源太が云った。「おせいさんは、もう身体は、いいのですかい」
 おせいは、実は、わし[#「わし」に傍点]の妾《めかけ》だった、だが、世の中の妾とは違って、昼間は、この工場で働かせ、わし[#「わし」に傍点]の顔で、|電纜の紙捲《ケーブルペーパーま》きという軽い仕事をやらせ、日給は、女性として最高に近いものを、会社から払わせてあった。夜になると、身粧《みつくろ》いをして、合宿から抜け出してくるわし[#「わし」に傍点]を迎えて、普通の妾となった。
「うん、もういいようだ。今夜も、あの電纜工場《ケーブル》で、稼《かせ》いでいる位だァ」
「うふ。組長は、万事《ばんじ》ぬかりが、ねえな」
「なんだとォ――」わし[#「わし」に傍点]は、ピリピリする神経を、やっとのことで抑《おさ》えつけた。「ちょっと電纜工場《ケーブル》へ寄ってくるから、五分間ほど、ここで待っていて呉《く》れ」
 わし[#「わし」に傍点]は、間もなく出てきた。
 電纜工場を通りすぎると、その先は、文字どおりに、無人郷であった。
 漆黒《しっこく》の夜空の下に、巨大な建物が、黙々《もくもく》として、立ち並んでいた。饐《す》えくさい錆鉄《さびてつ》の匂いが、プーンと鼻を刺戟した。いつとはなしに、一行は、ぴったりと寄り添い、足音を忍ばせて歩いていた。
「うわッ!」
 建物の軒下を伝い歩いていた男が、悲鳴をあげた。皆は、ギョッと、立ち停った。
「な、な、なんだッ」
「工場に、蟇《がま》がえるが出るなんて、知らなかったもんで……」
 きまりわるそうな、低い声だった、
「ドーン」
 二三間先の、鉄扉《てっぴ》が、鈍い音を立てて鳴った。
「ウウ、出たッ!」
「や、喧《やかま》しいやい!」
 わし[#「わし」に傍点]は呶鳴《どな》った。蟇がえるを蹴飛ばした先生は、黙っていた。
 ひイ、ふウ、みッつ!
 やっと、第九工場の、入口が見える。
 ぼッと、丸い懐中電灯の光の輪がぶっつかった。
 錠前には、異常がない。門衛から借りてきた鍵で、それを外《はず》させた。ガチャリと、錠の開いたのが、骨の崩れる音のようだった。
「さァ皆、懐中電灯を消すんだ」わし[#「わし」に傍点]は扉《と》の前に突立って云った。「静かに、中へもぐりこんだら、たとえ、どんな吃驚《びっくり》するようなことが起ろうと、声を立てちゃ、ならねえ。よしかッ。懐中電灯も、わし[#「わし」に傍点]が命令するまでは、どんなことがあっても、点《つ》けるなよッ。折角《せっかく》の化物を、遁《に》がしちまうからな。いいかッ」
 一同は、それぞれ、肯《うなず》いた。
 重い鉄扉を、細目にあけて、ブルブル慄《ふる》えている組下連中を、一人一人、押込んだ。最後にわし[#「わし」に傍点]が入って、扉をソッと閉めた。
 工場《こうば》の中は、油の匂いが、プンプンしていた。そして、鼻をつままれても判らぬほど、絶対暗黒《ぜったいあんこく》であった。何かしら、闇の中から、大きな手が出てきて、喉首《のどくび》をグッと締めつけられるような気味の悪い圧力を感じたのだった。
 誰もが、黙っていた。番号をかけるわけにもゆかない。わし[#「わし」に傍点]は、戸口のところから、手さぐりに、一人、二人と、人間の身体を数《かぞ》えて行った。彼等は、わし[#「わし」に傍点]の手が触《さわ》る度《たび》に、非常に驚愕《きょうがく》している様子であった。そして、申し合わせたように、隣り同士がピタリと身体を寄せ、手を繋《つな》ぎ合わせていた。
「十三人!」たしかに、全員が、入口に近い壁際《かべぎわ》に、鮃《ひらめ》のように、ピッタリ、附着しているのであった。
 それから、時《タイム》が軸の上を、静かに移ってゆくのが、誰にもハッキリと感ぜられた。時の経つのに随《したが》って、一秒また一秒と、恐怖の水準線《すいじゅんせん》が、グイグイと昇ってくるのだった。
 二分、三分、四分、五分――
 夢中で、隣りの男の手を、握りしめた。冷い汗が、腋《わき》の下に滲《にじ》み出して、軈《やが》てタラリと肋骨《あばらぼね》を、駆け下りた。
「キィーッ」
 一同は、はッと、呼吸《いき》をつめた。
「キィーッ、キィーッ」
 呀《あ》ッ、いよいよ、泣きだしたのだ。彼等はそれを鼓膜《こまく》の底に聴いた瞬間、板のように全身を硬直させた。
「キィーッ、キィーッ、ぐうッ、ぐうッ」
 彼等は、見えな
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