彼は、ふたたびとってかえすと、障子をガラリと開け、靴のままヅカヅカと、松山の寝床に近づいたが、ポケットから点火器《ライター》をとりだして、カチッと火をつけると、左手で静かに枕元の方へさしだし、一方の右手を伸ばして夜具《やぐ》の襟《えり》をグッと掴《つか》むと、ソッと持ちあげてみた。
「呀《あ》ッ――」
点火器《ライター》の淡黄色《あわきいろ》い光に照し出された一つの顔は、たしかに松山虎夫の顔であるには相違なかったけれど、そこには最早《もはや》あの活々《いきいき》とした朗《ほがら》かなスポーツ・マン松山の顔はなかった。顔面はドス黒く紫色に腫《は》れあがり、両眼は険《けわ》しくクワッと見開いて見《み》え能《あた》わざる距離を見つめていた。喘《あえ》ぎ終った位置に明け拡げられた大きな口腔《こうくう》のうちには、弾力を喪《うしな》った舌がダラリと伸びていた。真白な美しい歯並には、ネバネバした褐色の液体が半ば乾いたように附着していた。
「すっかり事切れている――どうやら中毒死のようだ。自殺か、他殺か。……」
流石《さすが》に彼は狼狽《ろうばい》もみせず、大きい声も立てず、だが眉宇《びう》の間に深い溝《みぞ》をうかべて、なにごとか、五分間ほど、考えを纏《まと》めているらしい様子だった。どこから風が来るのか、点火器《ライター》の小さい焔がユラユラと揺《ゆら》めくと、死人の顔には、真黒ないろいろの蔭ができて、悪鬼《あくき》のように凄《すざま》じい別人のような形相《ぎょうそう》が、あとからあとへと構成され、畳の上から伸びあがって帆村探偵に襲いかかるかのように見えた。
やがて探偵は、しずかに立って松山の死んでいる室を立出でて、又コトコトと音をたてて階上へとってかえした。彼は、もうセンセイでも、ホーさんでも無かった。それは帝都暗黒界の鍵《キー》を握る名探偵帆村荘六として完全に還元《かんげん》していた。
彼は麻雀ガールの豊ちゃん、ではない舟木豊乃《ふなきとよの》を静かによぶと、階下の惨事《さんじ》を、手短かに話をしてきかせた。声を出してはいけないと言って置いたけれども、
「まア、松山さんが死んでるんですって!」
と驚愕《きょうがく》したので、残っていた人達は、早くも事件が発生したことを悟《さと》って、わッと一時に席を立とうとした。帆村探偵は、そこで已《や》むを得ず、名乗りをあげて、御迷惑ながら、係官が到着して一応取調べがすむまで、御一同は一歩たりともこの室から外へ立出でないように願いたいと申渡して、一同を制した。一方、電話で、この変死事件を所轄警察《しょかつけいさつ》へ急報すると共に、別室に居たこのビルディングの番人に、とりあえず、死体のある室を守らせた。そして今にも泣き出しそうな顔をしている豊乃を促《うなが》して、特別麻雀室の入口に立たせ、室内はすべて其儘《そのまま》にとどめさせた。
「シンチャン達の家を知っているかい」
と帆村は、豊乃に訊《き》いた。
豊乃は、しばらくためらっている様子であったが、それからウンと黙って首を縦《たて》にふってみせた。
帆村は、事件の参考人として、さきに帰って行った星尾、園部、川丘みどりの三人を、出来るだけ早く、この場へ召喚《しょうかん》することが必要であると思った。豊乃の語るところによると三人は、ここから十五町ほどある道を市内電車で終点までゆき、そこから急行電車に乗りかえて三つ目のA駅で星尾は降り、小暗《こぐら》い田舎道《いなかみち》を五丁ほど行った広い丘陵《きゅうりょう》の蔭に彼の下宿があるそうである。次のB駅に園部は降りる。家は駅のすぐ近くで、両親のもとに住んでいる。そのまた次のC駅で、川丘みどりは降りる。駅の前を斜に三丁ほど入ったところに彼女の伯母の家があって、そこに寄寓《きぐう》しているとのことであった。
帆村探偵は、改めて電話を署にかけると、彼等の帰宅を擁《よう》して、即刻《そっこく》現場へ連れ戻ってほしいと希望をのべたのであったが、それは直ぐさま承諾された。
3
帆村探偵は、それがすむと、一秒も惜しいという風に、階下へ降りて行って、松山の屍体を入念に調べあげた。別に特別の発見もなかったが、唯一つ、右の拇指《ぼし》の腹に針でついたほどの浅い傷跡《きずあと》があって、その周囲だけが疣状《いぼじょう》に隆起《りゅうき》し、すこし赤味が多いのを発見した。これは松山が、白布《しろぬの》の張りかえのときに「痛いッ」と叫んだところのものであろうが、その傷はいつ頃からこうして出来ていたものか、詳《たし》かでなかった。毒物は、口から入ったか、注射されたか、またはこうした傷口から入ったのであるか、それは興味深い問題であるが、帆村探偵はこの傷跡をちょっと重大視したのである。
屍体の調べが
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