き乃公は、もう少しで精神病院へ強制的に抛《ほう》りこまれるところであったそうだ。いいところで気がついてよかったよ。
ところでその後だんだん調べられたが、その係官の中に杉浦予審判事というたいへん親切そうな仁《ひと》がいてね、その仁が乃公の聞きもしないことを、べらべら話をしてくれたよ。それは実に素晴らしい想像力から生れでた物語なのだ。まるで一篇のショート・ストーリーのように怪奇を極めた謎々ばなしなのさ。彼の物語の真偽はとるに足りないけれど、いかにもそのこじつけが面白いから、是非話して聞かせよう。
「お前はその二つの夢を、本当の夢だと思っているか。そして、よしんばそれが夢だとしても、その二つの夢の間に、或る不審が存在するということに気がつかないのか」
と、かの杉浦予審判事は、改まった口調で言いだしたのさ。乃公は面倒くさいから、黙っていた。すると彼は得々《とくとく》として喋りだしたものである。云うところはこうだ。
「お前は、はじめの夢で、かつての愛人を射殺し、二度目の夢では友人の妻君を殺したという。もしお前の云うとおり夢は同じことを二度以上見るというならば、その被害者が両度とも同じである筈ではないか。それが違っているのは不思議だとは思わないか」
というのだ。乃公は反対した。夢は自由である。登場人物など自由奔放に変り得るものだと言ってやった。
すると彼はまた訊ねるのだった。
「お前が最初の愛人を殺したときの光景はたいへん夢幻的に美しく、かつまた単純なものだった。しかるに二度目に友人の妻君を殺したときの光景は、あまりに現実的色彩が強すぎるではないか。この点の相違を考えるとき、なにかそこに或る作為《さくい》が盛られているとは気付かないのか」
と、ひどく真面目な顔をして云うのだった。乃公はこれを聞いた直後、こいつはいいことを云うと思った。たしかに乃公は二度目の夢の中での殺人に、かなり真実に迫るものを感じたから。だが、すこし長く考えていると、判事は些細《ささい》なことを、ひどくこじつけて論じてやがるぞと思って軽蔑を感じた。
「お前は黙っとるが、少しは僕の云うことが判るらしいね」とひとりぎめをして杉浦氏はまた語《ことば》をついだ。
「いいかね、まだまだ不審なことを並べてみるよ。第一、あの部屋を何と思う。実に変な部屋ではないか。奥に入ると、髪床にあるような大きな鏡が壁を蔽《おお》っていたり、変に印象的な赤い絨毯があったり、それから椅子セットの単純な色合といい、配置といい、また花についてでもそれを云うことが出来る。一体人の住む部屋ならば、もっとこまごましたものがあるべきだが、それが見当らないし、なにしろ単純で印象的で、一度見ると、二度と忘れないようにできている。魔術師が特に設計したようなもので、部屋の形はしているが全然人間の住むに適せず、トリックのための部屋としか思われないではないか」
という。――なあに、夢の中のことだ、単純で印象的なのは当り前だと云ってやりたかったよ、乃公は。
「どうだ、いちいちお前の胸に思いあたることばかりだろう」と予審判事はいよいよ得意であった。
「それからまだあとに、実に大きな矛盾《むじゅん》が残っているのだよ。お前がはじめに見た夢の中で、たいへん恐怖を感じた場面のあったのを覚えているだろう。実は、あのことだ。お前はピストルを手にして、鏡の中の自分の姿を見た。すると奇怪なことに、その自分の姿は、ピストルを握った手を左の胸のところまであげていた。それだのにお前自身の本当の手は、ポケットからピストルを出して握ったまま、ぼんやりとしていた。つまり自分の本当の身体と、鏡の中の映像との動作に喰いちがいのあるのを発見した。お前はそこですっかり脅《おび》えてしまった。一つの霊魂を宿している筈の実体と映像との両空間に不思議な断層を発見したために、ただ訳もなく狼狽してしまったのだ。もしお前が、常人のように気をしっかり持っていたのだったら、その空間の喰い違いに、はっとして本当のことを気付かねばならない筈だった。ここが大事なところだ。常人なら、どう思うだろう。(これは可笑しいぞ。お化け鏡ではあるまいし、鏡に映った自分の姿が、自分の演《や》りもしない動作をしているなんて可笑しいじゃないか。鏡の中に映っているのは自分の姿ではないのだ!)と気がつかなければならん。つまりその大鏡は鏡にあらずして、実はその硝子板の向うに、自分と同じ扮装をしている別人が向い合って立っていて、いかにも自分の姿が鏡に映っているように思わせているのだった。そういうことが、直ぐに判らなければならなかったのだ、常人ならばねえ」
この話を聞いたときばかりは、流石《さすが》の乃公も、金槌《かなづち》で頭を殴られたようにはっと驚いたよ。――だが、そんな莫迦気《ばかげ》たことがあるものかと、憤慨した。だって室内の調度がちゃんと映っているのですよ。椅子も、卓子《テーブル》も、それから卓子の上の洋酒の盆も。いやまだある。そこに並んでいる男と女の姿もちゃんと映っていましたよ、そんな莫迦気たことがあるものですか、と反対した。
「それだから、先刻から云っているのだ。トリックの道具立がちゃんとその部屋に出来ていたのだ。鏡に映っていると思ったのは、実は大きな硝子板の向うに、もう一つ同じ形に作った部屋が見えていたのだ。同じ配列で、裏向きにしておけばよかったのだ。人間だってそうだ。こっちと向うとに二人ずつの男女が居て、鏡にうつっているように見せかけたのだよ。いや向うの部屋には、もう一人男がいた。そいつは先にも云ったが、お前と同じ扮装をしていたのだ。何しろお前は気がおかしかったから、別人の男女をさえ、同じ顔をしているように感ちがいしたのだ。そんな場合には、常人を欺《あざむ》くことさえ容易だろう。さあそこで考えなければならんのは、なぜ二重の部屋を作り、こっちと向うの空間とを同一の空間と思わせたのだろう。その答は至極簡単明瞭である。お前の偽の姿をした男が、お前にその後の動作を暗示したのだ。つまりお前にピストルで狙わせ、そしてうしろにいる女を射撃させたのだ。どーンと放ったのは、恐らく空砲だったろう、女はかねて手筈《てはず》を決めてあったとおりに、その場にぶったおれる。そして芝居もどきに、卵の殻かなんかにつめてあった紅がらを流して、ピストルに射たれて死んだ様子を想わせたのだ」
――ああ、それでは、なぜ彼は私に、そんなことをさせたんだろう、と乃公は思わず叫んでしまった。
「それは判っている。それは第二の夢の場面にお前をひっぱり出し、そして友人の妻君というのを本当に殺させたかったのだ。精神薄弱者たるお前に、再度おなじ夢を見たと思わせ、前回のとおりの射撃をやらせたのだ。そのときお前がとりだしたピストルはちゃんと実弾が入っていたのだよ。そして二度目の夢の場面には、例の硝子板の向うの部屋は使わなかった。それは向うの部屋を暗室にすることによって、硝子板を鏡と同じ作用をさせたのだ。そんなトリックはよく、博覧会などの見世物で、やってみせるトリックで、誰でも知っている。お前は心にもなく、一人の女を殺してしまったのだ」
――なぜ私は、その女を殺さねばならなかったのですか、と乃公は怒鳴るようにして聞きかえしたものだ。すると、
「それは調べて判った。その女を殺すべく企《たくら》んだのは、その亭主である。つまりお前の親友という男だ。その部屋もなにもかも、お前の友人が作ったのだ」
――いえ、それは違います。あの男は、そんな悪い人間ではありません、といってやった。
「いや、もうすっかり種はあがっているのだ。お前が弁解してやっても効果がない。お前の友人という男は憎むべき奴だ。彼は事業に失敗して大金が入用だったのだ。その妻君には莫大な保険が懸けてあった。自分の手で殺したのでは駄目だから、お前を利用して殺させようとしたのだ。妻君をあの部屋に誘いだすことも、いい加減な口実をつかってやったことらしい。妻君は案内されてあの部屋に入り、発狂しているとでもいいふらしてあったお前の姿を見させたものらしい。そしてお前に射殺されてしまったのだ。――とにかくお前がここへ来て急に頭の調子が直ってくれてよかったよ」
乃公は聞いているうちに、あまりに巧みな話の筋に、もうちょっとでひっかかるところであった。そんな手数のかかることがあってたまるものか。判事さんの邪推だと思ったのだ。
――おかしいですよ予審判事さん。どうして彼は私をうまく使いこなしたのです。
「そりゃ判っているじゃないか。お前は夢というものをどう考えているか、などということについて、いつもその友人にくどくどと話をして聞かせる病があったというじゃないか。それですっかり利用されちまったのだ」
というのだよ、君。乃公は憐れむよ、予審判事さんの苦労性をね。君は乃公のことを利用して、自分は手を下さずして君の妻君を殺させたといっているのだからね。随分失礼な人じゃないか。これがまあ幸いにも、夢の中での出来ごとなのだから忍べるが、本当の世の空間に起ったことだったら、そいつは助からない話じゃないか。
しかし予審判事さんは、あくまで執拗なんだ、困ったね。
「お前は夢の中の話だというが、それは間違いだよ。それでも夢だと思っているのだったら、その思い違いであることを証明してやろう……」
と云うのさ。――じゃ、どうするんです! と聞いてやったら、乃公のことを鏡の前へ連れていってね、
「どうだ、この鏡にうつっているお前の顔は、お前の夢の中の顔か、それとも現実の世におけるお前の顔か」
と訊ねるじゃないか。見ると、乃公の顔は青白くて、弱々しくまず丸顔だ。夢で見るあの勇ましい顔とは全然違っている。
「これは現実の顔ですよ」
と乃公は答えちまった。すると予審判事は、それ見ろというような顔をして云った。
「それは可笑しいじゃないか。お前はいま夢の中に居るのだと先刻から云っているじゃないか。それが現実の顔だとは、こいつは可笑しい。そうだろう。いいかい、よく考えて、よく覚えていなくちゃ駄目だよ。お前が有ると信じている夢の国なんて、始めからありはしないのだ。空間は常に一つだ。だのにお前は空間が二つもあって、別な顔をしているようにいうが、畢竟《ひっきょう》同一の顔なのだ。いいかね。お前の精神状態がひどくなると、すっかり人間が違ってしまう。そして頭の手入れもしないし、髭も生え放題に放って置くのだ。お前は半裸体で、むやみと野外を駆けまわり、しまいには山の中へ隠れてしまうことさえあるのだ。そこでお前は陽にやけて、すっかり顔や形が違ってしまう。ではいま、お前の見ている前で顔にすこし手を入れてみよう。まず櫛《くし》のよく入っている頭髪を、このようにぐしゃぐしゃに掻き乱して、毛をおっ立ててしまう。それから、ここにある長いつけ髭をこういう具合につけてみる。そして顔に、この褐色の白粉を塗る。……さあよく鏡を見てごらん、その顔はどうだ。お前がもう一つの世の空間で持っていると信じていた顔に成っただろう、はっはっはっ」
――乃公は呀ッと駭《おどろ》いてしまった。正しくそのとおりだ。……しかし待てよ、やっぱり変だ。予審判事さんの手際はたいへん美事なようで、実はそうでない。彼は数学を知らないも同然だ。彼のロジックはちっとも合っていないのである。すなわち彼は、夢の中の髭茫々《ひげぼうぼう》の乃公の顔にすっかり手を入れて置いて、いかにも現実の世の乃公の顔のように化粧して置き、それを黙っていたのだ。そして今、再び逆に、もとの夢の中の顔に仮装法を以て還元してみせたのだ。それでは予審判事さんの云っているような一方的の証明にはならない。やっぱり乃公はいま夢の中に居るんだ。
――と危いところで欺されようとして助かったよ。ねえ君、お互はやっぱり、いま夢の世の中に居るんだよ。……
そのとき入口の鉄扉がぎいーっと開いた。そして私の予期したとおり手錠をもった看守長に続いて、痩躯《そうく》鶴のような典獄さんと、それから大きな山芋に金襴の衣を被せたような
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