鏡の前に立っている乃公の本体が既に死んでしまっているのだという事実を証明することになるではないか。
(……)
 切り裂くような大戦慄が全身を走った。乃公は慌てて、鏡の中にうつる乃公のあとを追って、ピストルを持つ腕を胸の方にぐんぐんあげた。だから間もなく乃公は、鏡の中の乃公に追いついた。
(ああ、恐ろしかった!)
 乃公は身体中びっしょり汗をかいた。
 ピストルは、遂に胸の上いっぱいに持ち上がった。銃口がぴたりと左の肩にあたる。それから左の肩がじりじりと廻転してゆく。半眼を開いて、照準をじっと覘《ねら》う。狙いの定まったままに、なおもじりじりと左へ廻転してゆく。
「き、き、き、きっ……」
 というような声をあげて、何も知らない二人は戯《たわむ》れ合う。
「ち、畜生!」
 憎い女だ、淫婦め!
 ちらと鏡の中に、自分の顔を盗みみると、歯を剥《む》きだして下唇をぐっと噛みしめていた。口惜しさ一杯に張りきった表情が、必然的に次の行動へじりじり引込んでゆく。引金にかかっている二本の指がぐっと手前へ縮んで……
「どーン」
 あ、やった。
「……う、ううーン」
 電気に弾《はじ》かれたように、女はのけぞった。そして一方の手は乳の上あたりをおさえ、もう一方の腕は高く宙をつかんだかと思うと、どうとその場に倒れてしまった。
「人を殺した。とうとう乃公は、人殺しを実演してしまったのだ!」
 乃公は、床の上に倒れている女の方へ近づいた。眠ったように女は動かない。見ると衣服の胸の上に、大きな赤い穴が明いて、そこから鮮血が滾々《こんこん》と吹きだして、はだけた胸許から頸部の方へちろちろと流れてゆくのであった。――男はいつの間にか、姿が見えない。ドーアから飛ぶようにして出ていったのであろう。
「ああ、乃公は人を殺してしまった……」
 乃公は呟《つぶや》いた。しかし、そのとき、どっかでせせら笑うような乃公の声を聞いたように思った。
「うん、そうだった。いま、乃公は人殺しの夢を見ているんだ。……さあ、あんまり駭《おどろ》くと、惜しいところでこの夢が覚めてしまうぞ。本当に人殺しをしたように、がたがた慄えていなくちゃ駄目じゃないか。もっと怖がるんだ。もっともっと……」
 ――そうこうしているうちに、乃公はそれから先の記憶を失ってしまった。女を殺した場面は以上のところまでしか覚えていない。


     2


 どうも夢の話だというのに、あまり詳しく話をしすぎたようで、さぞ退屈だったろうと思う。要は、乃公《おれ》のみた夢というのが、いかにはっきりとしたものであり、そして不思議な現象を持っているかということを理解して貰いたかったのであった。
 乃公の夢は、以上の話だけで仕舞いではない。これからいよいよ、夢のミステリーについてお話したいと思うんだ。これから喋るところのものは、ぜひ聞いて貰いたいと思うのだよ。
 さてそれから幾日経ってのことか忘れたがね、乃公はまたもう一つの夢を見たのだ。
 ――長い廊下をふらふらと歩いている……というところで気がついたのだ。
 ――相変らず長い廊下だ。天井も壁も黄色でね、……
「ああ、いつかこの廊下へ来たことがある!」乃公はすぐ気がついた。それに気がつくと、いけないことに、途端にもう一つのことに気がついたのだった。
「……ああ、乃公は夢を見ているんだ、いま夢を見ているんだな」
 と――。
 ――乃公は努めて、なるべくこの前のときと同じ歩きぶりで、その廊下を歩いていった。忠実に同じような歩きぶりを示さないと、折角の夢が破れるといけないと思ったから……。
 やっぱりドーアを見ていった。左側の五つ目のところに、金色のハンドルがついているのを発見した。
「これだな」
 乃公はにやりと笑った。
 ――その金色のハンドルを廻して、室内へ入りこんだ。もちろん部屋の中も、前回等に見たと全く同じことさ。室の中央に赤い絨毯《じゅうたん》が敷いてあるし、その上には瀟洒《しょうしゃ》な水色の卓子《テーブル》と椅子とのセットが載って居り、そのまた卓子の上には、緑色の花活が一つ、そして挿《さ》してある花まで同じ淡紅色のカーネーションだった。
「ふ、ふ、ふ。ふっ。」
 乃公はおかしくなって笑い出したくなるのを、じっと怺《こら》えながら室の中央に進んだ。そこで奥の方を見ると、果して例の大鏡があったのではないか。乃公はすっかり安心して、たいへんに楽な気持になった。
(役者などいう職業も、毎日同じ道具立で、同じことを演《や》るのだから、乃公がいま感じていると同じことに、初日以後は、やるたびに楽になってくるんだろう)
 そんなことを思ったりした。
 ――乃公は例によって、いつの間にか大鏡の前に立っていた。そこに映る自分の姿をみると、例のとおり怒髪《どはつ》天《てん》をつき、髭
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