顔は見えなかった。――乃公はそこでいつも勇ましい自分の顔を惚《ほ》れ惚《ぼ》れと見つめるのだった。ヴィクトル・エマヌエル第一世はこんな顔をしていたように思うなどと、私は反身《そりみ》になった。鏡の中の乃公の姿も、得意そうに、反身になったことである。
鏡の前で、さんざん睨《にら》めっこや、変な表情や滑稽な身ぶりをして楽しんでいると、背後に突然人声がしたのだった。
「お飲みものは如何さまで……」
それは若い男の声だった。
ふりかえってみると、いつの間にか卓子《テーブル》の上に、銀の盆にのった洋酒の壜《びん》と盃とが並んでいた。そして入口のドーアを背にして、いま声を出したのであろう、立派な顔をしたスポーツマンらしい青年が立っている。いやそれだけではない、彼の青年とピッタリ寄りそって、一人の若い女が立っているのだった。彼等はいつの間に、どこから入ってきたのだろう。
その女は、はじめ下を向いていたが、やがてオズオズと顔をあげて、乃公の方を睨むように見たのであった。
(呀《あ》ッ)
乃公はいきなり胸をつかれたように思って、はっと眼を外《そ》らせた。ああ、その女は乃公の愛人だったのである。若い男となんか手をとりあって入ってきやがってと、乃公の心は穏かでなかった。
だが乃公は、ここで慌てるのは恥かしいと思った。飽《あ》くまで悠々《ゆうゆう》と落付きを見せて、卓子の方へ近づき、二人を背にして腰を下ろした。そして洋盃《コップ》の中に酒をなみなみと注いで、そして静かに口のところへ持っていった。
ひそひそと、若い男女は乃公の背後で喃々私語《なんなんしご》しているではないか。その微《かすか》な声がアンプリファイヤーで増音せられて、乃公の鼓膜の近くで金盥《かなだらい》を叩きでもしているように響くのであった。
(あいつら、唯の仲じゃないぞ。もう行くところまで行っているに違いない!)
乃公はぐっとこみあげてくるものを、一生懸命に怺《こら》えた。でもむかむかとむかついてくる。乃公は目を瞑《と》じて、洋盃をとりあげるなり、ぐぐーっと一と息に嚥《の》み干した。そして空になった洋盃を叩きつけるようにがちゃりと、卓上に置いたのである。――二人の私語ははたと熄《や》んだ。
乃公は慌てないで、じっと取り澄ましていた。(あいつら、なんのために、乃公に見せつけに来たのか?)乃公が気がつかないと思っているのだろうか。それならそれでいい。よおし、こっちもそのつもりで居てやろう。
乃公は震《ふる》える足を踏みしめて、椅子から立ち上った。そして二人の方を見ないようにして、静かに奥の、大鏡の方へ歩いていった。
乃公はいつの間にか、鏡の真際に寄って立っていた。鏡をとおして二人の男女の様子を見ると、彼等は身体と身体を抱きあわんばかりにして、もつれ合っていた。女の方が挑もうという姿勢をする。と、若い男の方が、僅かに逡巡《しゅんじゅん》の色を見せるという風だった。乃公の血は、足の方から頭へ向けて逆流した。
鏡を見ると、自分の顔は物凄《ものすご》いまでに表情がかわっていた。肩のあたりがわなわなと慄えているのが見えた。乃公が鏡の中から監視しているとも識らず、乃公の背後で不貞な奴等は醜行を演じかかっているのだ。乃公はすこし慌ててきた。声を出そうと思ったが咽喉がからからに乾いて声が出てこない。気を落付けなくてはいけない――
乃公は煙草の力を借りようと思ったので、ポケットに手を入れて、そっとシガレット・ケースを引張りだした。そして蓋《ふた》をあけようと思ったが、どうしたのか明かない。乃公はそれを身体の蔭でやっているのである。顔を動かすこともいまは慎《つつし》まねばならないときだと思ったので、乃公は鏡に映っているその手を見た。そしてシガレット・ケースを見た。
(おや?)
乃公はちょっと吃驚《びっくり》した。わが手の中にあるのは、シガレット・ケースではなかったから……。
(……ピストル!)
乃公の握りしめているのは、一挺のブローニングの四角なピストルだったではないか。乃公はふらふらと眩暈《めまい》を感じた。
すると、そのときだった。鏡の中の乃公はそのピストルを持つ手を静かに腹の方から胸へ上げてゆくのであった。そんな筈ではなかったのだが、乃公の意志に反してじりじりと上ってゆくのであった。奇怪なことにも、鏡の中の乃公の手は、乃公の本当の手よりも先にじりじり上へ上ってゆくのだった。ずいぶん気味のわるい話であるが、鏡の中の自分の方が、お先へ運動を起してゆくのだった。乃公はじっとしているのがとても恐ろしくなった。鏡の前に立っている自分が、この儘《まま》じっとしているなら、乃公は発狂するかもしれない。鏡の中の自分が動いて、その前に立っている筈の自分が動かないということは、とりもなおさず、
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