は鼻の下をがっちりと固めているという勇ましい有様だった。
「どうぞお飲みものを……」
 と、男の声がうしろでして、振りかえってみるとちゃんと例の立派な顔の若い男が立っていた。その傍には、下を俯《うつ》むいている連れの若い女さえも、前回とは寸分たがわぬ登場人物だった。
 ――それから乃公は、順序に随って、卓子のとこへ帰って来た。そして洋酒の壜をあけて、盃へなみなみと注いだ。それをきっかけのようにして、背後で男女のひそひそと早口で語る声が聞えてきた。
 ――そこで乃公は、大いに憤慨した気持になって、洋盃の酒をぐっと一息にあおる。がちゃんと盃を卓子の上に叩きつけるようにして立ち上るや、ふらふらと大鏡の方へ歩いてゆく……。
 そこで乃公は、すこし薄気味が悪くなってきた、この前のひどく恐ろしかった印象が、まざまざと思いだされてきたからであった。あれから実にぞっとするようなことが起った。それは人殺しの場面を指して云うのではない。それよりもずっと前、この鏡の前に立って、自分の姿を映してみていると、自分の映った姿の方が、自分より先に動いているという。この眼にはっきりと映った異様なるあの有様……。
「あれだけは、実に恐ろしい」
 乃公の身体は小きざみに震えてきた。おそるおそる一挙一動を鏡にうつして見るのだった。
 ――ポケットの中から、シガレット・ケースならぬピストルを取り出す……。
 おお、それからだ!
 ――ピストルを握る手を、じりじりと胸の方へ上げてゆく。……じりじりと上げてゆく。
「はてな、……今日はよく合っているぞ」
 乃公は期待した異常が今日は認められないのに、ほっと息を吐いた。しかしいつ急にありありと、二つの像が分裂をはじめないとも限らない……。
「ああ、大丈夫だ」
 乃公は嬉しさと安心のあまり、声をあげようとしたほどだった。正しく異常はなかった。その途中わざと腕を上下へ動かしてみたが、実物と像とは、シンクロナイズしたトーキーのように、すこしも喰いちがいなく、同じ動作を同じ瞬間にくりかえしたのだった。
(この前のあの恐ろしい分離現象は、自分の心の迷いだったかしら!)
 そんな風に思ったが、いやそんなに深く考えることはいらなかったのだ。なにしろ夢の中の出来ごとではないか。いろいろと理窟に合わないこともできる筈である。原っぱの真中にいて、机がほしいと思えば、奇術のように、ぽっかりと机が飛びだしてくることも、夢の中だから、あったとて別に不思議はないのだ。
 ――銃口を左の肩にあてがい、狙いを定めて、静かに肩を左に廻してゆく。男と女とは、小声ながら、呼吸をはずませて云い争っている。若い女の、なんというか恨《うら》み死《じに》するような感能的な鼻声が聞えた。……
「そこだっ、――こん畜生!」
 乃公はピストルの引金をひいた。
 どーン。
「きゃーッ。……」
 魂切る悲鳴が、部屋をひき裂かんばかりに起った。
 ――見れば女は、片手で肩のあたりを抑えどうと絨毯の上に倒れたが、もう一方の腕をしきりに動かして、手あたりしだい掻き※[#「てへん+毟」、第4水準2−78−12]《むし》っているのだった。
「どうしたんだろう?」
 乃公は不審に思って、射殺した筈の女の方へ近づいた。女はまだ死にきってはいなかった。しかし見る見る気力が衰えてゆくのがはっきりと判った。肩先にあてていた真赤な血の染《そ》んだ手が徐々に下に滑り落ちてゆくと、傷口がぱくりと開いて、花が咲いたように鮮血がぱっとふきだした。ひたひたと女の四肢が震えたかと思うと、やがてぐったりと身体を床に落として、そして遂に動かなくなってしまった。
「いやに深刻な最後を演じたもんだ」
 乃公はあざ笑いながら、近よって女の腰を蹴った。女は睡っているように、動かなかった。それから乃公は頭の方へ廻って、女の顔を覗きこんだ。
「おや?」
 例の昔|識《し》りあった愛人だとばかり思っていた乃公は、女の横顔をみてはっとした。
「人違い……だっ」
 乃公はハッと胸を衝《つ》かれたように感じたのだった。駭《おどろ》いて女の首を抱きあげて、その死顔を向けてみた。
「呀《あ》ッ、これは……」
 なんというひどい人違いをしたものだ。昔の愛人だとばかり思ったが、それが大違いで、その死体の女は、紛れもなく兄弟同様に親しくしている或る友人の妻君だったではないか!
「し、しまった!」
 乃公は思わず歯を喰いしばった。どうしてこれに気がつかなかったことであろう。その妻君を射殺してしまうなんて、人殺しという罪も恐ろしいには違いないが、それよりもかの親しい友人に、なんといって謝ったらばいいだろうか。
 その妻君は、実に感心な女なのだった。その連れあいというのが、乃公とは随分と親しい仲ではあったが、この頃だいぶん妙な噂を耳にするのであった。
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