氷河期の怪人
海野十三
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)ヒマラヤ越《ご》え
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)団長|木谷博士《きたにはかせ》
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ヒマラヤ越《ご》え
このふしぎな物語は旅客機ヤヨイ号が、ヒマラヤ山脈中に不時着《ふじちゃく》した(?)事件から、はしなくも、くりひろげられる。
このヤヨイ号には、ある特別な用事をおびて、ヨーロッパへわたる特使団《とくしだん》の一行がのっていた。道彦《みちひこ》少年も、その中に加わっていた。彼は、団長|木谷博士《きたにはかせ》の小さい秘書だった。
世界地図をひろげてみるとわかるが、日本からヨーロッパへとぶには、どうしても、ヒマラヤ山脈にぶつかるのであった。ヤヨイ号は、仏領《ふつりょう》インドシナ某地点で、多量のガソリンやオイルを積みこんでから、ふわりと空へまいあがったのであった。
インドの上をとぶことができれば、都合《つごう》がよかったのであるが、あいにく気象状態がよくないので、この国の上へは、なるべくとばない方がよかった。だから針路をインドの北どなりにとり、まるで天然《てんねん》の万里の長城のようなヒマラヤ山脈を越え、チベットやネパールやブータンの国々の間をぬい、そして一気にアフガニスタン国のカブールという都市まで無着陸の飛行をつづけなければならなかった。これは全航路の中で、一等あぶないところであった。ヤヨイ号は、ついに、この大難所《だいなんしょ》にさしかかった。機の高度は、八千メートルであった。
山脈中の最高峰《さいこうほう》は、八千八百八十三メートルのエベレスト山であって、富士山の二倍半に近い。そのほかにも八千メートルを越える高い峰々がならんでいて、機の高度の方が、むしろ低い。もっと機の高度をあげればよいわけであるが、これ以上あげると、エンジンの馬力《ばりき》がたいへんおちるしんぱいがあった。そして、機内は、寒さのため、のりこんでいる特使団の一行はもちろん、操縦士《そうじゅうし》や機関士などの乗員ですら、非常なくるしさとたたかっているのであった。機の前面には、今にもぶつかりそうな峰々が、一つまた一つ、ヤヨイ号をおどかすようにあらわれる。操縦士は、そのたびに、舵《かじ》をひいて方向をかえ、白雪《しらゆき》をいただいた峰のまわりをぐるっとうかいしなければならなかった。だいたい山々の五千メートルから上は、すっかり雪におおわれ、まっ白に光っていた。飛行地図を見ると、このへんの平均|雪線《せっせん》は五千メートルとしるされているが、まさにそのとおりだった。
「ここから見ていると、地球全体が、雪におおわれているようですね」
道彦が、窓ガラスから外を見下して、かん心して言った。
「ああ、そうだね」
こたえたのは、木谷博士だった。博士は、部厚い本のページを開いて、しきりに読みつづけている。前の席の背中が、小さいたなになっていて、そのうえにフラスコがおいてある。フラスコの口から、かすかに湯気《ゆげ》がたちのぼっているが、この中にはあつい紅茶が入っているのであった。
「写真で見た北極の氷原とは、だいぶんちがったけしきですね」
「それは、ちがうよ。北極の氷原は、こんなにでこぼこしていない。もっとも氷山はあるが、山脈の感じとはちがうよ。おおあそこに最高峰のエベレストの頭が見えるな」
「どれです。エベレストは……」
「ほら、あそこだ。あそこに灰色がかった雲があるが、あの雲から頭を出している」
と、いった博士は、どうしたのか、そこでまゆをひそめて、窓ガラスのところへ、ひたいをすりつけ、
「……あの雲は、いやな雲だなあ。ほう、風が出てきたらしい。雲がうずまいて、うごきだしたぞ」
と、しんぱいそうである。
「先生、すると、空はあれますか」
「うむ、一《ひと》あれ、きそうだ。大吹雪《おおふぶき》がやってくるぞ。おお、機はいよいよ高度をあげだしたぞ」
そばに、高度計がかかっていたが、その指針は、生きもののように、ぐるぐるうごきだした。さっきまでは高度八千のところを指していたのが、八千五百になり、九千になり、そしてまだその上になっていく。しゅうしゅうと、酸素が室内へおくられはじめた。おしよせる雲のうえに、うまく出られればいいが……。
しかし、ついにいやな運命がやってきた。
「先生、エンジンの音がへんですね。そう思いませんか」
ヤヨイ号には、四つの発動機がついて、さっきまでは、ゴーンゴーンとこころよい響《ひびき》をだしていたのが、ここへ来て、急に調子がわるくなって、ときに、するするッととまる。それからしばらくして、またぶるぶるンとまわるのであった。寒冷《かんれい》のため、エンジンがどうかしたのだ。
雲は、いつしか機のまわりをとりかこんでいた。そして視界《しかい》は、すっかりとじられてしまった。
「これはいかん。山にぶつからなければいいが……」
と、ひごろおちついた木谷博士が、しんぱいそうに席から腰をあげた。そのしゅんかん、機は、ものすごい音をたてた。そして人々は、あっという間に、てんじょうにほうりあげられた。
「墜落《ついらく》だ。早く機から外へ出ろ……」
道彦の耳に、だれかの声がはいったが、彼は、その後のことをよくおぼえていない。
遭難《そうなん》に乱《みだ》れず
道彦が気がついたときは、彼は、くらやみの中にいた。ガソリンの、たまらない匂《にお》いが、彼の鼻をつよくつきさすので、彼はたまらなくなって、大きなくしゃみをした。
「おお道彦か。気がついたらしいな。どうじゃ、気分は、どこか痛《いた》まないか」
くらやみの声は、木谷博士《きたにはかせ》にちがいなかった。
「あっ、先生、ぼくは、大丈夫です。しかし、からだがうごきません」
「そうか。お前のからだが冷えないように、ありったけの毛布でくるんであるんだ」
「ああ、そうですか。――飛行機は、ついらくしたんですね」
「うむ、山の斜面《しゃめん》にのりあげたんだ」
「みなさんは、どうしました」
「……む」
博士は、しばらくうなっていたが、
「かなり、ひどいけがをした。が、まあ、そのことに気をつかわないのがいい。とにかく、お前が大丈夫なら、こんな幸いなことがない。風邪《かぜ》をひかないようにして、夜の明《あ》けるのを待とうよ」
博士は、やさしいうちに、道彦を力づけた。そして彼の口にぷーんといい匂いのする葡萄酒《ぶどうしゅ》の壜をあてがった。夜明までにずいぶんながい時間がかかったように思った。しかし、東の空が、うっすらと白みかかったのがわかったとき道彦は、とびたつほどうれしかった。
「先生、夜が明けてきました」
博士は、横の座席で、これも毛布をうんとからだにまきつけ、だるまさんのようなかっこうになってねむっているようであった。
「先生、先生!」
道彦は、博士をよんだ。しかし博士は、それにこたえなかった。
道彦は、立ちあがって、博士をゆりおこしにかかった。だがそれはむだであった。博士は、こんこんとしてねむっていた。
「……もしや、先生は、死にかかっていられるのではないかしら。そうだとすると、だれかをよんで、なんとかして助けなくては……」
道彦は、明かるくなった機内を見まわしたが、ふしぎにも、博士のほかにはだれもいなかった。
「みんな、どうしたのであろうか」
彼は、通路をあるいていった。通路の正面の扉《とびら》があいている。そこを入ると、戸口が見える。その戸口《とぐち》もあいていた。そして、あけかかった空を背にして、雪山がひどくかたむいていた戸口までいくと、はっきり事情がわかった。なるほど、ヤヨイ号は、かたい雪の斜面《しゃめん》に、ななめにかしいだまま、腹ばいになっているのであった。左の翼《つばさ》が、根もとから、もぎとられている。機首《きしゅ》は雪の中につっこんでいた。
道彦はびっくりしたが、しいて気をおちつけ、雪のうえに下りた。すると、機から十メートルばかりへだったところに、テントが、柱《はしら》もしないで、雪のうえにひろげられていた。なにをするために、そんなことをしてあるのかと、彼はその方にあるいていったが、とちゅうで彼は、うむとうなって立ちどまった。それはテントの下から、人間の足が見えたからであった。
テントをめくって、その下を見る必要はない。道彦は、急に頭が、ふらふらとしてきたが、こんなことで、よわい気を出してはならないと思い、げんこをかためると、われとわがあたまをがーんとなぐりつけた。
(……生き残ったのは、先生と自分だけらしいようだ。いや、先生も、このままにしておけば死んでしまうぞ)
道彦はしっかりしなくてはならないと、自分の心をはげました。なんとかして、先生をたすけること、それから、この大椿事《だいちんじ》を東京へ知らせること、この二つを早くやらなければ、彼のつとめがすまない。彼は、決心をした。どうやら、ここは、ヒマラヤ山脈の高峰らしいが、どこかに、人間はいないであろうか。登山者がいてくれるといいのだが、あるいは山番でもいい。
太陽は山のはしからのぼって、雪山一たいをぎらぎらとてりつける。道彦は、かたい雪のうえを、いくたびかすべりそうになって、それでもやっとがけのふちまで、たどりついた。そして、谷の方を、おそるおそる見下ろしたのであった。
雪のほかに、何一つ見えない大雪谿《だいせっけい》が、はるか下の方へのびている。向いの山も、まっ白であって、山小屋はもちろん、石室《いしむろ》らしいものさえ見えなかった。そうでもあろう。ここはよほどの奥山らしい。
それでも道彦は、のぞみをすてなかった。小手《こて》をかざして、どぎつい太陽の光をさえぎりつつ、なおも峰々へ眼をやった。
すると、だしぬけに、彼のうしろで、声をかけた者があった。
「おい、お前さん。わしに、力を貸してくれないか」
そういった声は、聞きなれない外国語であった。
現われた怪人《かいじん》
「えっ」
道彦は、おもいがけない外国語でよびかけられ、びっくりして、うしろをふりむいた。すると、そこには、いようななりをした大男が、ぬっと立っていた。
「君は、だれ?」
道彦は、といかえした。
毛のふかふかとしたながい毛皮でもあろうかと思うもので、頭の先から足の先までをつつみ、そして顔も、きらきら光る目だけを出したその大男であった。もし彼が、ことばをしゃべらなかったら、ゴリラとまちがえたかもしれない。
「わしか。わしは、氷の中から出てきた人間だ」
「氷の中から出てきた人間?」
「そうだ。あのおそろしい氷河期《ひょうがき》とたたかって、ついにうちかった人間だ。生きのこったのは、わしひとりだ」
その怪人《かいじん》は、道彦と同じようなことを、自分からいった。彼の話すところによれば、氷河期にとじこめられた人間だというのだ。道彦は目をみはった。そして、あらためて、怪人の顔をみなおした。なるほど、見れば見るほど、きみょうな人間であって、両眼は、額《ひたい》の下にふかくほれた眼窩《がんか》の中にあり、そして両眼は猿のように寄っている。氷河期といえば、ずいぶんおおむかしのことで、一等あたらしい第四氷河期でさえ、今から大よそ二十万年も前にあたるのであった。
これをむずかしくいうと、第四期の洪積世《こうせきせい》であって、旧石期時代《きゅうせっきじだい》にあたる。そのころ、われらのごとき人類の先祖《せんぞ》のもう一つその前の原始人類《げんしじんるい》がすんでいたころのことである。そういえば、この怪人は、手に、たしかに石でつくったおのをにぎっている。
「石器時代の人間だって、うそだろう。二十万年も前の人間が生きているはずはないよ」
「いや、ちゃんとこうして生きているから、たしかではないか。――それよりも、ききたいのは、お前は、どこの人間か」
「ぼくたちかい。ぼくたちは、日本人さ」
「日本人? きいたことがないなあ」
怪人は首をかしげた。石斧《いしおの》をもった
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