わけです。
(室内の圧力が高いということは、どういう状態にあったのかしら?)
 風船ではないのですから、この室内だけに特に圧力の高い瓦斯《ガス》が充満していたとは考えられません。それに窓硝子の壊れる前に、私はこの室内へ入っていたのです。扉を破って入ったときに、室内に圧力の高い瓦斯と空気が充満していたものだったら、私は吃度《きっと》強く吹きとばされた筈です。しかし一向そんな風《ふう》もなく、普通の部屋へ入るのと同じ感じでありました。するとこの室内に高圧瓦斯が充満していたとは考えられません。
(すると、それは一体どうしたわけだろう)
 こんな風に窓硝子が壊れるためには、もう一つの考え方があります。それは何か大きい物体を、この室から戸外へ抛《な》げたとしますと、こんな大きな孔が出来るかも知れません。いつだか銀座のある時計屋の飾窓の硝子を悪漢《あっかん》が煉瓦《れんが》で叩《たた》き破って、その中にあった二万円の金塊《きんかい》を盗んで行ったことがあります。あの調子です。しかし煉瓦位では、こんなに大きい孔はあきそうもありません。少くとも盥《たらい》位の大きさのものを投げたことになります。
(だが、盥位の大きさのものを外に投げたとしたら、そのとき私は室の中に居たのだから、それが眼に映らなければならなかったのに――)
 ところが私は、盥のようなものが、この窓硝子に打ちつけられたところなどを決《けっ》して見ませんでした。いやボール位の大きさのものだってこの硝子板をとおして飛び出したのを見なかったのです。
(すると、この矛盾はどう解決すべきであろうか?)
 全く不思議です。盥位の大きさのものをこの室内から外に投げたと思われるのに、それが見えなかったというのは、どうしたわけでしょう。――そうだ。こういうことが考えられるではありませんか。若《も》し抛《な》げられたものが、無色透明の物体だったとしたらどうでしょうか。仮《かり》に盥ほどもある大きい硝子《ガラス》の塊《かたまり》だったとしたら、そいつは私の眼にもうつらないで、この室から外へ抛げることが出来たでしょう。その外に解きようがありません。
 しかしながら、そんな大きい無色透明の物体なんて在《あ》るのでしょうか。そいつは一体何者でしょうか。それは室内《しつない》のどこに置いてあって、どういう風にして窓硝子へぶっつかったのでしょうか。こう考えて来ると、折角《せっかく》謎がとけてきたように見えましたが、どうしてどうして、答はますます詰《つま》ってくるばかりです。なぜなれば、そんな眼に見えないもの(又は眼に見え難《にく》いもの)で、莫迦《ばか》に大きいもの、そして硝子を壊《こわ》す力があるようなもの、そしてそれは誰が抛《な》げたか――イヤそれはまるで化物屋敷の出来ごとでもなければ、そんな不思議は解けないでしょう。
「ム――」
 と私は其の場に呻《うな》りながら腕組《うでぐみ》をいたしました。
 眼に見えないか、見えにくいもので、盥《たらい》位の大きさ、形は丸くて、硝子を壊す位の重いもので、その上、簡単に室内から投げられるようなものとは、一体何だろう。


   怪《あや》しい白毛《しらげ》(?)


 私はそのときに、「崩れる鬼影」という謎のような言葉を思い出しました。
 ああいう非常時に、人間というものは、驚きのなかにも案外たいへんうまい形容の言葉を言うものです。「鬼影」というも「崩れる」というも、決して出鱈目《でたらめ》の言葉ではありますまい。ことに此《こ》の家《や》の老婦人も兄も、全く同じ「崩れる鬼影」という言葉を叫んだのですから、いよいよ以《もっ》て出鱈目ではありますまい。
 影というからには、どこかに映ったものでありましょう。あのときは――そうです、満月《まんげつ》が皎々《こうこう》と照っていました。今はもう屋根の向うに傾《かたむ》きかけたようです。月光に照らされたものには影が出来る筈《はず》です。影というのは、その影ではないでしょうか。あの場合、満月の作る影と考えることは、極《きわ》めて自然な考えだと思いました。すると――
(あの満月に照らされて出来た影なのだ。それはどこへ映《うつ》ったか?)
 私は首をふって、改めて室内を見まわしてみましたが、
(ああ、この窓に鬼影が映ったのだッ)
 と思わず叫び声をたてました。そうだ、そうだ。兄はこの部屋に入る前までは「鬼影」などと口にしなかったではないですか。これはこの室に入って始めて鬼影を見たとすれば合うではありませんか。しかもこの室の、この窓硝子の上に……
 私はツカツカと窓硝子の傍《そば》によりました。そして改めて丸く壊れた窓硝子を端《はし》の方から仔細《しさい》に調べて見ました。破壊したその縁《ふち》は、ザラザラに切り削《そ》いだような歯を剥《む》いていました。私はそこにあったスタンドを取上げてどんな細かいことも見遁《みのが》すまいと、眼を皿のようにして観察してゆきました。
 しかし別に手懸《てがか》りになるようなものも見えません。台をして上の方もよく見ました。だんだんと反対の側を下の方へ見て行きましたが、
「オヤ」
 と思わず私は叫びました。
「これは何だろう?」
 硝子の切《き》り削《そ》いだような縁《ふち》に、白い毛のようなものが二三本|引懸《ひっかか》っているではありませんか。ぼんやりして居れば見遁《みのが》してしまうほどの細いものです。余り何も得るところがなかったので、それでこんな小さなものに気がついたわけでした。
 これを若《も》し見落していたならば、この怪事件の真相は、或いはいまだに解けていなかったかも知れません。それは後《のち》の話です。
 私はハンカチーフを出して、その白い毛のようなものを硝子の縁から取りはなしました。そしてそのまま折《お》り畳《たた》んで、ポケットに仕舞いこんだのでした。
 丁度《ちょうど》そのときです。
 戸外《こがい》に、やかましいサイレンの音が鳴り出しました。
 ブーウ、ウ、ウ。ブーウ、ウ、ウ。
 まるで怪獣のような呻《うな》り声です。
 破れた窓から外に首を出してみますと、どうでしょう、遥《はる》か下の街道《かいどう》をこっちへ突進して来る自動車のヘッドライトが一《ひ》イ、二《ふ》ウ、三《み》イ、ときどきパッと眩《まぶ》しい眼玉をこっちへ向けます。いよいよ警察隊がやって来たのです。頭からポッポッと湯気《ゆげ》を出して怒っている警官の顔が見えるようでした。
 ふりかえってみると、兄は依然として絨氈《じゅうたん》の上に長くなったまま、苦しそうな呼吸をしていました。
 私は階段をトントンと下って、老婦人の室《へや》の扉《ドア》を叩《たた》きました。
「おばさん。いよいよ警官が来ましたよ。もう大丈夫ですよ」
 そう云いながら、私は扉を開いて室内へ一歩踏み入れました。
「や、や、やッ――」
 私の心臓はパッタリ停ったように感じました。私は一体そこで、何を見たでしょうか?


   妖怪屋敷《ようかいやしき》


 この室の扉《ドア》を開くまでは、私は老婦人ひとりが、静かに寝台《ベッド》の上に睡《ねむ》っていることと思っていました。ところがどうでしょう。いま扉を押して見て駭《おどろ》きました。なんでもそのときの気配《けはい》では、婦人の外に十人近くの人間がウヨウヨと蠢《うごめ》いているのを直感しました。
「オヤッ」
 一体この大勢の人間は何処から入ってきたのでしょう? ここの主人の谷村博士とこの老婦人以外には、せいぜい一人二人のお手伝いさんぐらいしか居ないだろうと思った屋敷に、いつの間にか十人近くの人間が現れたのです。しかも大して広くもない此《こ》の婦人の室に、ウヨウヨと集っていたのですから、私は胆《きも》を潰《つぶ》してしまいました。
 ですけれど、私の駭きはそれだけでお仕舞《しま》いにはなりませんでした。おお、何という恐《おそ》ろしい其《そ》の場の光景でしょうか。その十人近くの人間と見えたのは、実は人聞だかどうだか解りかねる奇怪《きかい》なる生物《いきもの》でした。そうです。生物には違いないと思います、こうウヨウヨと蠢いているのですから。
 彼等は変な服装《なり》をしていました。時代のついた古い洋服――それもフロックがあるかと思えば背広があり、そうかと思うと中年の婦人のつけるスカートをモーニングの下に履《は》いています。しかしそのチグハグな服装はまだいいとして、この人達の顔が一向にハッキリしないのは変です。
 私は眼をパチパチとしばたたいて幾度も見直しました。ああ、これは一体どうしたというのでしょう。彼等の顔のハッキリしないのも道理《どうり》です。全《まった》くは、顔というものが無いのです。頭のない生物です。頭のない生物が、まるで檻の中に犇《ひしめ》きあう大蜥蜴《おおとかげ》の群《むれ》のように押し合いへし合いしているのです。
「ばッ、ばけもの屋敷だ!」
 私はそう叫ぶと、室内《しつない》に死んだようになって横たわっている老婦人を助ける元気などは忽《たちま》ち失《う》せて、室外に飛び出しました。うわーッと怪物たちが、背後《うしろ》から襲《おそ》いかかってくる有様が見えるような気がしました。
「助けてくれーッ」
 私はもう恐ろしさのために、大事な兄のことも忘れ、一秒でも早くこの妖怪屋敷から脱出したい願いで一杯で、サッと外へ飛び出しました。
「たッ助けてくれーッ」
 ああ、眩《まぶ》しい自動車のヘッド・ライトは、二百メートルも間近《まぢか》に迫《せま》っています。警察隊が来てくれたのです。あすこへ身を擲《な》げこめば助かる! 私はもう夢中で走りました。
「オイ何者かッ。停まれ、停まれ」
 私の顔面には突然サッと強い手提電灯《てさげでんとう》の光が浴せかけられました。おお、助かったぞ!


   怪しき博士の生活


「この小僧《こぞう》だナ、さっき電話をかけてきたのは」
 無蓋《むがい》自動車の運転台に乗っていた若い一人の警官が、ヒラリと地上に飛び降りると、私の前へツカツカと進み出てきました。
「僕です」私はもう叱《しか》られることなんか何でもないと思って返事しました。「トンチキ野郎などと大変な口を利《き》いたのもお前だろう」
「僕に違いありません。そうでも云わないと皆さん来てくれないんですもの」
「オイオイ、待て待て」そこへ横から警部みたいな立派な警官が現れました。「それはもう勘弁《かんべん》してやれ」
 私はホッとして頭をペコリと下げました。
「それでナニかい。一体どう云う事件なのかネ。君が一生懸命の智慧《ちえ》をふりしぼって僕等を呼び出した程の事件というのは……」
 警部さんには、よく私の気持が判っていて呉《く》れたのです。これ位|嬉《うれ》しいことはありません。私は元気を取戻しながら、一伍一什《いちぶしじゅう》を手短かに話してきかせました。
「ウフ、そんな莫迦《ばか》なことがあってたまるものか。この小僧はどうかしているのじゃないですか」
 例の若い警官黒田巡査は、あくまで私を疑っています。
「まアそう云うものじゃないよ、黒田君」分別《ふんべつ》あり気《げ》な白木《しろき》警部は穏《おだや》かに制して、「なるほど突飛《とっぴ》すぎる程の事件だが、僕はこの家を前から何遍《なんべん》も見て通った時毎《ときごと》に、なんだか変なことの起りそうな邸《やしき》じゃという気がしていたんだ」
「そうです、白木警部どの」とビール樽《だる》のように肥った赤坂巡査が横から口を出しました。「ここの主人の谷村博士は、年がら年中、天体望遠鏡にかじりついてばかりいて他のことは何にもしないために、今では足が利《き》かなくなり、室内を歩くのだってやっと出来るくらいだという話です」
「可笑《おか》しいなア、その谷村博士とかいう人は、確《たし》かに空中をフワフワ飛んでいましたよ」私は博士が足が不自由なのにフワフワ飛べるのがおかしいと思ったので、口を出しました。
「それは構わんじゃないか」黒田巡査が大きな声で呶鳴《どな》るよ
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