って飛び出しました。入口を出ると、そこには二階へ通ずる幅の広い階段があります。何か組打《くみうち》をしているらしい騒々《そうぞう》しい物音が、その上でします。私は階段を嘗《な》めるようにして駈けのぼりました。
「兄さーん」
二階の廊下を走りながら叫びました。
「兄さんッ」
ところが俄《にわ》かにハタと物音がしなくなりました。さあ心配が倍になりました。いままで物音のしていたと思われる室の扉《ドア》をグッと押しましたが開《あ》きません。
「うーッ」
変な呻《うな》り声が、内部《うち》から聞えます。正《まさ》しくこの部屋です。
私は身体をドンドン扉にぶつけました。ぶつけて見て判ったことです。扉には鍵がかかっているのだろうと思ったのに、そうではないらしいです。何か向うに机のようなものが転がっていて、それが扉の内部から押しているらしいです。それならば、力さえ籠《こ》めれば開くだろうという見込《みこみ》がつきました。
ドーン。
ガラガラと扉が開きました。
部屋の中へ飛びこんでみますと、そこは図書室のようでもあり、何か実験をしている室でもあるらしく、複雑な器械のようなものが、本棚の反対の側に置いてあり、天体望遠鏡《てんたいぼうえんきょう》のようなものも見えます。しかし肝心《かんじん》の兄の姿が見えません。
(攫《さら》われたのかナ)
私はハッと胸をつかれたように感じました。
「兄さーん!」
うーッ、うーッというような呻《うな》り声《ごえ》が突然聞えました。呻り声のするのは、意外にも私の頭の上の方です。私は駭《おどろ》いて背後《うしろ》にふりかえると、天井を見上げました。
「ややッ――」
私はその場に仆《たお》れんばかりに吃驚《びっくり》しました。兄が居ました。たしかに兄が居ました。しかし何という不思議なことでしょう。兄は天井に足をついて蝙蝠《こうもり》のように逆さまにぶら下《さが》っているのです。頭は一番下に垂《た》れ下っていますが、私の背よりもずっと高くて手がとどきません。兄の顔は、熟柿《じゅくし》のように真赤です。両手は自分の顔の前で、蟹《かに》の足のように、開いたまま曲っています。何物かを一生懸命に掴《つか》んでいるようですが、別に掴んでいる物も見えません。口をモグモグやっていますが、言葉は聞えません。何者かに締《し》めつけられているような恰好《かっこう》です。どうしたらいいだろう。
一体、兄はどうしてそんな天井に逆さまで立っているのか判らないのです。しかし兄が非常な危険に直面しているらしい事は充分にわかります。
(何とかして早く助けなければ……)
私は咄嗟《とっさ》の考えで、傍の本棚に駈けよると洋書をとりあげました。
「ええいッ」
私は洋書を、兄のお尻の辺を覘《ねら》って抛《な》げつけたのです。本は兄の身体から三十センチ程手前でバサッという物音がしてぶつかると軈《やが》てドーンと床の上に落ちて来ました。
一冊、又一冊。四五冊|抛《な》げつづけている間に、兄の様子が少しずつ変って来ました。それに勢《いきおい》を得て尚《なお》も抛《な》げていますと、急に兄の身体が横にフラリと傾《かたむ》くとどッと下に落ちて来ました。
私は吃驚《びっくり》して、その下に駈けつけました。抱きとめるつもりが、うまくゆかなくて、兄の身体の下敷になったまま、ズトンと床に仆《たお》れました。
「兄さん、兄さんッ」気を失っている兄を、私は一生懸命にゆすぶりました。
「おお」兄はパッと目を見開きました。「ああ影が崩《くず》れる――」
謎のような言葉を云ったなり、兄は又ガクッとして、床の上に仆れてしまいました。
丁度そのときガチャーンと大きな物音がして、硝子《ガラス》窓が壊《こわ》れました。見ると門の方に面した大きい硝子窓には盥《たらい》が入りそうな丸い大きい穴がポッカリと明いているのです。不思議にも硝子の破片《はへん》は一向に飛んで来ません。別に何物も硝子窓にあたったように見えないのに、これは一体どうしたということでしょう。
次から次へ、不思議としか言うことの出来ない事件が起ったのです。私は気を失った兄を膝の上に抱き起したまま、老婦人が始めに呟き、それから又兄が今しがた叫んだ謎の言葉を口の中に繰《く》りかえして見ました。
「崩れる影、崩れる鬼影《おにかげ》!」
信じられない事件
月の明るい箱根の夜の出来事でした。空中をフワフワ飛んでゆく白衣《びゃくい》の怪人が現れたかと思うと、間近くから救いを求める老婦人の金切声《かなきりごえ》が起りました。救いに行った、私の兄の帆村荘六《ほむらそうろく》は、その洋館の一室で、足を天井につけ、身は宙ぶらりんに垂下《たれさが》っていました。ニュートンの万有引力《ばんゆういんりょく》の法則を無視したような芸当《げいとう》ですから私は驚きました。これは様子がおかしいと気がついて、やっと助け下ろしますと、「崩《くず》れる鬼影《おにかげ》!」と不思議な言葉を呟いたまま人事不省《じんじふせい》に陥《おちい》ってしまいました。
「崩れる鬼影」とは、あの老婦人も譫言《うわごと》のように叫んでいた言葉ではありませんか。これは一体どうしたというのでしょう。鬼影とはなんでしょう。それが崩れるとは、何のことだか一向見当がつきません。
「兄さん。兄さん――」
私は兄の荘六の耳元で、ラウドスピーカーのような声を張りあげました。でも兄はピクリとも動きません。反応がないのです。
「兄さん、しっかりして下さい――」
と今度は両手でゆすぶってみました。しかしやっぱり兄はまるで気がつきません。所は山深い箱根のことです。人里とては遠く、もう頼むべき人も近所にはないのです。私はどうしてよいのやら全く途方に暮れてしまいました。ポロポロと熱い泪《なみだ》が、あとからあとへ流れて出ます。私はもう怺《こら》えきれなくなって、ひしと兄の身体に縋《すが》りつき、オイオイと声をあげて泣き始めました。笑ってはいけませんよ。誰でもあの場合、泣くより外《ほか》に仕方がなかったと思います。
「ああ、ひどい熱だ――」
兄の額《ひたい》は焼《や》け金《がね》のようです。私はハッと思いました。兄をこの儘《まま》で放って置いたのでは死んでしまうかも知れないぞと思いました。そうなると、もうワアワア泣いてなど居られません。私は一刻も早く、兄の身体を医者に見せなければならないと気がつきました。
私は気が俄《にわ》かにシッカリ引き締まるのを覚えました。
「日本の少年じゃないか」私は泪をふるい落としました。「非常の時に泣いていてたまるものか。なにくそッ――」
私はヌックと立ち上ると、お臍《へそ》に有《あり》ったけの力を入れました。
「ウーン」
すると不思議不思議。気がスーゥと落付いてきました。鬼でも悪魔でも来るものならやってこい――という気になりました。
私は兄のために、さしあたり医者を迎えねばならないと思いました。この家のうちには電話があるのではないかと思ったので、兄の身体はそのままとし、階下《した》へ降りてみました。階段の下に果して電話機がこっちを覗《のぞ》いていましたので、私は嬉しくなって飛びついてゆきました。だが電話をかけようとして、私はハタと行《ゆ》き詰《づま》ってしまいました。どこのお医者様がいいのだか判らないのです。そのとき不図《ふと》気がついたのは所轄《しょかつ》の小田原《おだわら》警察署のことです。
(まず警察へこの椿事《ちんじ》を報告し、救いを求めよう。それがいい!)
警察の電話番号は、電話帳の第一|頁《ページ》にありました。私は自動式の電話機のダイヤルを廻しました。――警察が出ました。
「モシモシ。小田原署ですか。大事件が起りましたから、早く医者と警官とを急行して貰って下さい」
「大事件? 大事件て、どんな事件なんだネ」
向うはたいへん落付いています。
「兄が天井に足をついて歩いていましたが、下におっこって気絶をしています。いくら呼んでも気がつかないのです」
「なにを云っているのかネ、君は。兄がどうしたというのだ」
「兄が天井に足をつけて歩いていたんです」
「オイ君は気が確かかい。こっちは警察だよ」
ああ、これほどの大事件を報告しているのに、警察では一向にとりあってくれないのです。私はヤキモキしてきました。
「まだ大事件があるのです。ここの主人が、先刻フワフワと空中を飛んで門の上をとび越え、川の向うの森の方へ行って見えなくなりました」
「なアーンだ。そこは飛行場なのかい」
「飛行場? ちがいますよちがいますよ。ここの主人は飛行機にも乗らないで、身体一つでフワフワと空中へ飛び出したのです」
「はッはッはッ」と軽蔑《けいべつ》するような笑い声が向うの電話口から聞えました。「人間が身体だけで空中へ飛び出すなんて、莫迦《ばか》も休み休み言えよ。こっちは忙《いそが》しいのだから、そんな面白い話は紙芝居《かみしばい》のおじさんに話をしてやれよ」
「どうして警察のくせに、この大事件を信じて手配をして呉《く》れないんです」わたしはもう怺《こら》えきれなくなって、大声で叫びました。
「オイ、これだけ言うのに、まだ判らないことを云うと、厳然《げんぜん》たる処分《しょぶん》に附《ふ》するぞ。空中へ飛び出させていかぬものなら、縄で結《ゆ》わえて置いたらばいいじゃないか。広告気球の代りになるかも知れないぞ」
警官はあくまで冗談だと思っているのです。私はどうかして警官に早く来て貰いたいと思っているのに、これでは見込《みこみ》がありません。そこで一策を思いつきました。
「ヤイヤイヤイ」私は黄色い声を出して云いました。「ヤイ警官のトンチキ野郎奴《やろうめ》。鼻っぴの、おでこの、ガニ股の、ブーブー野郎の、デクノ棒野郎の、蛆虫《うじむし》野郎の、飴玉野郎の、――ソノ大間抜け、口惜しかったらここまでやってこい。甘酒進上《あまざけしんじょう》だ。ベカンコー」
「コーラ、此《こ》の無礼者奴《ぶれいものめ》。警察と知って悪罵《あくば》をするとは、捨てて置けぬ。うぬ、今に後悔するなッ」
警官は本気に怒ってしまいました。その様子では、間もなくカンカンになって頭から湯気《ゆげ》を立てた警察隊がこの家へ到着することでしょう。
ところで病院は、小田原病院というのが見付かりました。私はそこへ電話をかけて、急病人であるから、自動車で飛んで来てくれるように頼みました。
さあ、これで一《ひ》と安心です。警察隊と医者の来るのを待つばかりです。その間に私は現場《げんじょう》を検《しら》べて、事件の手懸《てがか》りを少しでも多く発見して置きたいと思ったのでした。私だって素人探偵《しろうとたんてい》位は出来ますよ。
少年探偵の眼は光る
兄の身体は重いので、絨氈《じゅうたん》の上に寝かしたままに放置するより仕方がありません。隣の寝室らしいところから、枕と毛布とをとって来て、兄にあてがいました。それから、金盥《かなだらい》に冷い水を汲《く》んで来て、タオルをしぼると、額の上に載《の》せてやりました。こうして置いて私は、現場調査にとりかかったのです。
その室で、まず私の眼にうつる異様なものは、窓|硝子《ガラス》の真ン中にあけられた大きい孔《あな》です。これは盥《たらい》が入る位の大きさがあります。随分大きな孔があいたものです。何故この窓硝子が割れたのでしょうか。それを知らなければなりません。
調べてみると、その窓硝子の破片《はへん》は、室内には一つも残らず、全部|屋外《おくがい》にこぼれているのに気がつきました。どうして内側に破片が残らなかったか?
(うむ。これは窓硝子を壊《こわ》す前に、この室内の圧力が室外の圧力よりも強かったのだ)
もし外の方が圧力が強いと窓硝子が壊れたときは、外から室内へ飛んでくる筈《はず》ですから室内に硝子の破片が一杯|散乱《さんらん》していなければなりません。そういうことのないわけは、それが逆で、この室内の方が圧力が高かった
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