がたもきっと喰われてしまいますよ。ああ、恐ろしい……」
「魔物ですって?」兄はキッとなって老婦人の顔を見つめました。「魔物って、どんな魔物なんです」
「そいつは鬼です。あの窓のところに、その魔の影が映りました。あれは人間でも猿でもありません。しかし何だか判らないうちにその鬼の形がズルズルと崩《くず》れてしまったのです。崩《くず》れる鬼《おに》の影《かげ》――ああ、あんな恐ろしいものは、まだ見たことが無い」
崩れる鬼影!
老婦人は一体どんなものを見たのでしょう。空を飛んでいった手術着の人は、どこへ行ってしまったのでしょう。
怪事件の顛末《てんまつ》
家の中に三人が入ってみますと、別に何の物音もしません。まるで地底《ちてい》の部屋のように静かです。
老婦人はベッドの上に、暫《しばら》く寝かして置きました。私は兄に命ぜられて、老婦人のそばについていました。兄さんはソッと部屋を出てゆきました。きっと二階の方に、事件のあとを探しに行ったのに違いありません。
老婦人はベッドの上に、静かに目を閉じて睡っています。呼吸《いき》も大変|穏《おだや》かになって来ました。やっと気が落付いてきたものと見えます。二階では、コツコツと跫音《あしおと》がしています。兄が廊下を歩いているのでしょう。
「ああ――」
老婦人は、一つ寝返《ねがえ》りをうちました。そのときに両眼《りょうがん》を天井の方に大きく開きました。
「ああ、うちの人は帰って来たのかしら」
「いいえ、あれは私の兄ですよ」
老婦人は急に恐ろしい顔になって、私の方を向きました。
「兄さんですって――」
「二階へ調べに行っています」
「二階へ? そりゃいけません。恐ろしい魔物にまた攫《さら》われますよ。危い、危い。さ、早くわたしを二階へ連れていって下さい」
そのときでした。俄《にわ》かに二階で、瀬戸物《せともの》をひっくりかえしたようなガチャンガチャンという物音が聞えてきました。つづいてドーンと床を転《ころ》がるような音がします。
「民夫《たみお》! 民夫! 早く来てくれッ」
兄の声です。兄が呶鳴《どな》っています。とても悲痛《ひつう》な叫び声です。今までにあんな声を兄が出したことを知りません。恐ろしい一大事が勃発《ぼっぱつ》したに違いありません。
私は老婦人の傍《そば》から立ち上ると、室の扉《ドア》を蹴って飛び出しました。入口を出ると、そこには二階へ通ずる幅の広い階段があります。何か組打《くみうち》をしているらしい騒々《そうぞう》しい物音が、その上でします。私は階段を嘗《な》めるようにして駈けのぼりました。
「兄さーん」
二階の廊下を走りながら叫びました。
「兄さんッ」
ところが俄《にわ》かにハタと物音がしなくなりました。さあ心配が倍になりました。いままで物音のしていたと思われる室の扉《ドア》をグッと押しましたが開《あ》きません。
「うーッ」
変な呻《うな》り声が、内部《うち》から聞えます。正《まさ》しくこの部屋です。
私は身体をドンドン扉にぶつけました。ぶつけて見て判ったことです。扉には鍵がかかっているのだろうと思ったのに、そうではないらしいです。何か向うに机のようなものが転がっていて、それが扉の内部から押しているらしいです。それならば、力さえ籠《こ》めれば開くだろうという見込《みこみ》がつきました。
ドーン。
ガラガラと扉が開きました。
部屋の中へ飛びこんでみますと、そこは図書室のようでもあり、何か実験をしている室でもあるらしく、複雑な器械のようなものが、本棚の反対の側に置いてあり、天体望遠鏡《てんたいぼうえんきょう》のようなものも見えます。しかし肝心《かんじん》の兄の姿が見えません。
(攫《さら》われたのかナ)
私はハッと胸をつかれたように感じました。
「兄さーん!」
うーッ、うーッというような呻《うな》り声《ごえ》が突然聞えました。呻り声のするのは、意外にも私の頭の上の方です。私は駭《おどろ》いて背後《うしろ》にふりかえると、天井を見上げました。
「ややッ――」
私はその場に仆《たお》れんばかりに吃驚《びっくり》しました。兄が居ました。たしかに兄が居ました。しかし何という不思議なことでしょう。兄は天井に足をついて蝙蝠《こうもり》のように逆さまにぶら下《さが》っているのです。頭は一番下に垂《た》れ下っていますが、私の背よりもずっと高くて手がとどきません。兄の顔は、熟柿《じゅくし》のように真赤です。両手は自分の顔の前で、蟹《かに》の足のように、開いたまま曲っています。何物かを一生懸命に掴《つか》んでいるようですが、別に掴んでいる物も見えません。口をモグモグやっていますが、言葉は聞えません。何者かに締《し》めつけられているような恰好《かっこう
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