》です。どうしたらいいだろう。
 一体、兄はどうしてそんな天井に逆さまで立っているのか判らないのです。しかし兄が非常な危険に直面しているらしい事は充分にわかります。
(何とかして早く助けなければ……)
 私は咄嗟《とっさ》の考えで、傍の本棚に駈けよると洋書をとりあげました。
「ええいッ」
 私は洋書を、兄のお尻の辺を覘《ねら》って抛《な》げつけたのです。本は兄の身体から三十センチ程手前でバサッという物音がしてぶつかると軈《やが》てドーンと床の上に落ちて来ました。
 一冊、又一冊。四五冊|抛《な》げつづけている間に、兄の様子が少しずつ変って来ました。それに勢《いきおい》を得て尚《なお》も抛《な》げていますと、急に兄の身体が横にフラリと傾《かたむ》くとどッと下に落ちて来ました。
 私は吃驚《びっくり》して、その下に駈けつけました。抱きとめるつもりが、うまくゆかなくて、兄の身体の下敷になったまま、ズトンと床に仆《たお》れました。
「兄さん、兄さんッ」気を失っている兄を、私は一生懸命にゆすぶりました。
「おお」兄はパッと目を見開きました。「ああ影が崩《くず》れる――」
 謎のような言葉を云ったなり、兄は又ガクッとして、床の上に仆れてしまいました。
 丁度そのときガチャーンと大きな物音がして、硝子《ガラス》窓が壊《こわ》れました。見ると門の方に面した大きい硝子窓には盥《たらい》が入りそうな丸い大きい穴がポッカリと明いているのです。不思議にも硝子の破片《はへん》は一向に飛んで来ません。別に何物も硝子窓にあたったように見えないのに、これは一体どうしたということでしょう。
 次から次へ、不思議としか言うことの出来ない事件が起ったのです。私は気を失った兄を膝の上に抱き起したまま、老婦人が始めに呟き、それから又兄が今しがた叫んだ謎の言葉を口の中に繰《く》りかえして見ました。
「崩れる影、崩れる鬼影《おにかげ》!」


   信じられない事件


 月の明るい箱根の夜の出来事でした。空中をフワフワ飛んでゆく白衣《びゃくい》の怪人が現れたかと思うと、間近くから救いを求める老婦人の金切声《かなきりごえ》が起りました。救いに行った、私の兄の帆村荘六《ほむらそうろく》は、その洋館の一室で、足を天井につけ、身は宙ぶらりんに垂下《たれさが》っていました。ニュートンの万有引力《ばんゆういんりょく》の法則を無視したような芸当《げいとう》ですから私は驚きました。これは様子がおかしいと気がついて、やっと助け下ろしますと、「崩《くず》れる鬼影《おにかげ》!」と不思議な言葉を呟いたまま人事不省《じんじふせい》に陥《おちい》ってしまいました。
「崩れる鬼影」とは、あの老婦人も譫言《うわごと》のように叫んでいた言葉ではありませんか。これは一体どうしたというのでしょう。鬼影とはなんでしょう。それが崩れるとは、何のことだか一向見当がつきません。
「兄さん。兄さん――」
 私は兄の荘六の耳元で、ラウドスピーカーのような声を張りあげました。でも兄はピクリとも動きません。反応がないのです。
「兄さん、しっかりして下さい――」
 と今度は両手でゆすぶってみました。しかしやっぱり兄はまるで気がつきません。所は山深い箱根のことです。人里とては遠く、もう頼むべき人も近所にはないのです。私はどうしてよいのやら全く途方に暮れてしまいました。ポロポロと熱い泪《なみだ》が、あとからあとへ流れて出ます。私はもう怺《こら》えきれなくなって、ひしと兄の身体に縋《すが》りつき、オイオイと声をあげて泣き始めました。笑ってはいけませんよ。誰でもあの場合、泣くより外《ほか》に仕方がなかったと思います。
「ああ、ひどい熱だ――」
 兄の額《ひたい》は焼《や》け金《がね》のようです。私はハッと思いました。兄をこの儘《まま》で放って置いたのでは死んでしまうかも知れないぞと思いました。そうなると、もうワアワア泣いてなど居られません。私は一刻も早く、兄の身体を医者に見せなければならないと気がつきました。
 私は気が俄《にわ》かにシッカリ引き締まるのを覚えました。
「日本の少年じゃないか」私は泪をふるい落としました。「非常の時に泣いていてたまるものか。なにくそッ――」
 私はヌックと立ち上ると、お臍《へそ》に有《あり》ったけの力を入れました。
「ウーン」
 すると不思議不思議。気がスーゥと落付いてきました。鬼でも悪魔でも来るものならやってこい――という気になりました。
 私は兄のために、さしあたり医者を迎えねばならないと思いました。この家のうちには電話があるのではないかと思ったので、兄の身体はそのままとし、階下《した》へ降りてみました。階段の下に果して電話機がこっちを覗《のぞ》いていましたので、私は嬉しくなって飛びついてゆきま
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