向いてニコニコ笑っているではありませんか。ああ私は何か夢を見ていたのでしょうか。
「に、にいさん――」
「おお、気がついたナ、民《たみ》ちゃん」
 兄は私の手を握ると、顔を寄せました。
「どうしたんです。兄さん。――博士夫人も笑っていらっしゃるじゃありませんか」
「はッはッ。では夫人に訳を伺《うかが》ってごらん」
「イエあたくしからお話申しましょうネ。早く申せば、私のつれあい――つまり谷村が無事で帰って来たのです。兄さんたちのお骨折りの結果です」
「どうして無事だったんです。誰か死んでいましたよ、隧道《トンネル》の上で……」
「あれなら大丈夫。あれは僕だったんですよ」
 と、そういって脇《わき》から逞《たくま》しい男が出て来ました。見れば、どこかで見たような顔です。
「僕――黒田巡査です」
「ああ、黒田さん」
「僕が土に埋《う》められたところを、皆さんで掘り出して下すったのです。僕だけではなく、博士も助かったんです。これは怪物が隧道から飛び出すときに、私達を土と一緒に跳ねとばして埋めてしまったんです」
「ああ、すると怪物はやはり隧道から逃げてしまったのですネ」
「そうです、逃げてしまったのです――但し一匹を除いてはネ」
「一匹ですって?」私は思わず大声に訊《き》きかえしました。「一匹は逃げなかったんですか」
「そうなんだよ、民ちゃん」と今度は兄が横から引取って云いました。「一匹だけ、僕等の手に捕《とら》えることができたんだよ。それも、お前の手柄から来ているんだ」
「手柄ですって? なんだか、なにもかも判らない尽《づく》しだナ」
「そうだろう。いや、夜が明けると、何も彼《か》もが、まるで様子が違っちまったのだからネ」
 そういって、やがて兄が顛末《てんまつ》を話してくれました。それはまったく思いもかけなかったような新事実でありました。


   谷村博士の研究録


 兄は、私から渡された例の白毛《しらげ》のことを思い出し、それの正体《しょうたい》を一刻《いっこく》も早く知りたい気持で一ぱいで、小田原の警備隊の中からひとり脱け出でると、この谷村博士邸へ帰ってきたのだそうです。私はいま、博士|邸《てい》に来ているのだそうですから、驚きますネ。
 兄はこの怪物について、きっと博士の研究があるものだと考え、博士夫人の力を借りて研究室をいろいろ探したのです。すると果して書類函《しょるいばこ》の一つの抽出《ひきだし》に、「月世界の生物について」と題する論文集を発見いたしました。
 怪物が月に関係のあることは、兄はすでに感づいていたそうです。それでパラパラと論文を開いてゆくうちに、次のような文面を発見しました。
「月世界には、一つの生物がいるが、それは殆んど見わけがつかない。それは人間の眼では透明としか見えない身体をもっているからだ。その生物は形というものを持っていない。まるで水のように、あっちへ流れ、こっちへ飛びする。そして思いのままの形態をとることができる。液体的生物《えきたいてきせいぶつ》だ。アミーバーの発達した大きいものだと思えばよい。この生物は、もし地球上で大きくなったとしたら、必ず人間や猿のように固体《こたい》となるべきものであるが、月世界の圧力と熱との関係で、液体を保って成長したのである。
 恐《おそ》らくこの生物は、アミーバーから出発したもので、人間より稍《やや》すぐれた智慧をもっているものと思われる。それは、今日盛んに、この地球へ向って、信号を送っているからである。人間界には、この生物のあることを知っている者が殆んど居ない。それはあの透明な月の住民たちの身体を見る方法がなかったからだ。然《しか》るに予《よ》は、特殊の偏光装置《へんこうそうち》を使って、これを着色して認めることに成功した。その装置については、別項の論文に詳解しておいた。
 ここに注意すべきは、このルナ・アミーバーとも名付くべき生物は、地球の人類に先んじて月と地球との横断を試《こころ》みたい意志のあることである。おそらく、それは成功することであろう。彼等は地球へ渡航《とこう》したときに、身体の変質変形をうけることを恐れて、何かの手段を考え出すことであろうと思われる。予の考うるところでは、多分そのルナ・アミーバーは身体を耐熱耐圧性《たいねつたいあつせい》に富み、その上、伸縮自在《しんしゅくじざい》の特殊材料でもって外皮《がいひ》を作り、その中に流動性の身体を安全に包んで渡航してくるであろう。その材料について、予は左記の如き分子式を想像するが、この中には、地球にない元素が四つも交《まじ》っているので、もしルナ・アミーバーが渡来したときには、面白い研究材料が出来ることであろう、云々《うんぬん》」
 ルナ・アミーバーという、透明で、流動性の生物があることは、博士の論文
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