う》と廊下を歩いているのです。
「あの怪物には、身体も無いぞ」
 誰かが気が変になったような悲鳴をあげました。なるほどモーニングの大きい穴の向うには、背中の方のモーニングの裏地《うらじ》が見えるばかりで中はガラン洞《どう》に見えました。こんな不思議な生物があるのでしょうか。
「あれは洋服だけが動いているのじゃないだろうか」
 一人の警官が、いくら雨霰《あめあられ》と飛んでゆく機関銃の弾丸《たま》を喰《く》らわせてもビクとも手応《てごた》えがないのに呆《あき》れてしまって、こんなことを叫びました。しかしその証明は、立《た》ち処《どころ》につきました。というのは、破れモーニングの怪物が、こんどはノソノソと、機関銃隊の方へ動き出したのです。
 ビュン、ビュン、ビュン、ビュン。
 異様な音響を耳にしたかと思うと、そのモーニングはサッと走り出しました。呀《あ》ッと一同が首をすくめる遑《ひま》もあらばこそ、機関銃がパッと空中に跳《は》ねあがり、天井《てんじょう》に穴をあけると、どこかに見えなくなりました。
「これはいかん」
 と思う暇もなく、一同の向《むこ》う脛《ずね》は、いやッというほどひどい力で払《はら》われてしまいました。
「うわーッ」
 警部と私とが助かったばかりで、あとは皆将棋だおしです。もう起きあがれません。警官隊は全滅《ぜんめつ》です。
 モーニングの怪物はと見てあれば、フワフワと開《あ》け放《はな》された玄関に出てゆきました。玄関には入口の扉の影だけが、月光に照らされて三角形の黒い隈《くま》をつくっています。
 怪物はその扉の向うへ出てゆきました。出て行ったと思う間もなく、玄関の厚い硝子戸《ガラスど》にモーニングの影がうつりました。
「おお、あれを見よ、あれを見よ」
 警部さんは生きた心地もないような慄《ふる》え声《ごえ》で叫びました。
 おお、それは何という物凄《ものすご》い影でしょうか。硝子戸に月が落《お》とした影は、モーニングだけの影ではなかったのでした。稍《やや》淡《あわ》い影ではありましたが、モーニングの上に、確かに首らしいものが出ています。その頭がまた四斗樽《しとだる》のように大きいのです。
 モーニングの袖からも手らしいものが出ていますが、それが不釣合《ふつりあい》にも野球のミットのような大きさです。
 いやもっと駭《おどろ》くことがあります。
 その大きい頭部が、見る見るうちに角《つの》が出たり、二つに分かれたり、そうかと思うとスーッと縮《ちぢ》んで小さくなったり、その気味《きみ》の悪さといったらありません。なんと形容して云ったらよいか。
 ああ、そうだ。
「崩《くず》れる鬼影《おにかげ》!」
 影が崩れる、鬼の影――というのは、これなのです。私は背中に冷水を浴びたように、ゾーッとしてきました。血が爪先《つまさき》から膝頭《ひざがしら》の辺までスーッと引いたのが判りました。一体これは何者でしょうか。
 鬼か、人か?
 妖怪屋敷《ようかいやしき》を照らす満月《まんげつ》の光は、いよいよ青白《あおじろ》くなって参りました。
 異変の夜は、まだいくばくも過ぎていないのです。
 続いて起ろうとする怪事件は、そも何か。


   警官の紛失《ふんしつ》


「化物は何をしているんでしょ。ねエ警部さん」
 と私は白木警部の腕を抑《おさ》えて云いました。
「なんだか、ガタガタいってたのが、すこしも音がしなくなったようだネ」
 そういって警部は、注意ぶかく頭をもちあげて、戸口の方を、見ました。月光は相変《あいかわ》らず明るく硝子戸《ガラスど》を照らしていましたが、先刻《さっき》見えた怪《あや》しい鬼影《おにかげ》は、まったく見当りません。唯《ただ》空《むな》しく開いた入口の外は木立《こだち》の影でもあるのか真暗《まっくら》で、まるで悪魔が口を開《あ》いて待っているような風《ふう》にも見えました。
「さっき戸口がゴトゴト云ってたが、みな外へ逃げ出したのかも知れない」
 警部の声を聞きつけたものか、あちらこちらから、部下の警官が匍《は》いよってきました。
「警部どの。あれは一体人間なんですか」
「人間ですか。それとも人間でないのですか」
 部下のそういう声は慄《ふる》えを帯《お》びていました。
「さア、私《わし》にはサッパリ見当がつかん」
 警部も、今は匙《さじ》を投げてしまいました。それから沈黙の数分が過ぎてゆきました。その間というものは建物の中がまるで死の国のような静けさです。
「オイみんな。元気を出せ」と警部が低いが底力《そこぢから》のある声で云いました。「この機に乗《じょう》じて一同前進ッ」
 警部は左手をあげて合図《あいず》をすると、自《みずか》ら先頭に立ってソロソロと匍《は》い出しました。ゆっくりゆっくり戸口の方へ
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