ニ墜チテ死ンダトダケオ伝エクダサイ」
 とうとうやったな――と、長谷部大尉は思った。
 杉田二等水兵は、ついに機関大尉の行方を案じて、脱艦したのである。脱艦事件というものは、外国の軍艦にあっても、わが帝国軍艦には例のないことだ。それはたいへん重い罪としてある。杉田は、その重い罪であることを十分承知で、死の覚悟をもって脱艦したのである。その目的は、川上機関大尉の行方を、たしかめるためだというのだ。ああなんという悲壮な決心であろうか。
 長谷部大尉はその遺書を手にしたまま、分隊長はじめ一同の顔をぐるりと見まわした。誰もみな沈痛な顔をしていて、一語も発する者がなかった。
「本当に脱艦したものだろうか。脱艦したとすれば、どこからどういう風に脱艦したものだろうか」
 と、長谷部大尉は、誰に問うともなくそういった。
「遺憾ながら、私はなんにも知らないのです」
 分隊長は首をふった。
「あの――、杉田は、艦側から、海中にとびこんだのであります」
 と、誰かうしろの方で大声で叫んだ者があった。
「なに、艦側から? よく知っているのう。おい、誰か。もっと前へ出て話をせよ」
 分隊長はのびあがって、このおどろくべきニュースを報道した者の姿をさがした。
「はっ、――」
 と答えはしたが、その先生は急に頭をかいて、こそこそ逃げ出そうとする。その姿を見ると、外ならぬ大辻二等水兵だった。
「なんだ、大辻じゃないか。早くこっちへ出て当直将校の前で話せ」
 大辻はもじもじしながら長谷部大尉の前に出てきた。
「ははあ、お前か。――」
 長谷部大尉は呆れた。村の鎮守さまにおしゃべりをしない誓をたてたといった例の大男である。杉田の脱艦したことを自分がしゃべったことは、ないしょにしておいてくれと、さんざん頼んでいったその大辻二等水兵だったから、これが呆れずにいられようか。
 大辻は、ふだんから赤い顔を一層赤くしながら、いまにも泣き出しそうである。
「わ、私がしゃべらないといけませんか」
「あたりまえだ」
 長谷部大尉は一喝した。
「杉田の脱艦について要領よく、ありのままにしゃべれ、村の鎮守さまの方は、あとから俺があやまってやる」
「うへっ、――」と大辻は眼を白黒させ、
「――では申し上げますが、杉田はいま申しましたとおり、午前十時二十分、艦側から海中にとびこんだのであります」
「ふむ――それから」
「杉田は水中深くもぐりこみました。彼はもと鮑《あわび》とりを業としていたので、なかなかうまいのであります。かれこれ三分ほどももぐっていたでありましょうか、やがて彼はしずかに海面に顔だけを出して、泳ぎだしました」
「ばかに話がくわしいが、一体それはどうして分かった」
「それは――それはつまり見張人が見張っていたのであります」
「なに、見張人? 誰がそんな脱艦を見張っていたのか。――ははあ、貴様だな」
 長谷部大尉は、かっと両眼をむいて大辻を睨みつけた。
「……」
 大辻はそれに対して返事ができなかった。ただ両眼から、豆のような大粒の涙を、ぽろんぽろんと落しはじめた。
「黙ってちゃ分からぬ。なぜ答えないのだ」
「うへっへっへっ」
 と大辻は奇妙な泣声をあげながら、
「そうおっしゃいますけれど、杉田のあの苦しい胸中も考えてやって下さい。あ、あいつは海へとびこむ前に、手をあわせて、この私を拝みました。どうぞこの俺に川上機関大尉の後を追わせてくれ。もし機関大尉が生きていられたら、きっと連れ戻る。もし死んでいられたら、俺もその場で死ぬる覚悟だ。機関大尉の先途を見とどけないで俺のつとめがすむと思うか。どうか俺を男にしてくれ。それに俺には、いやな疑いがかかっているのだ。俺が川上機関大尉の行動を知っていていわないように思われている。俺は知らないのだ。たとえそれを察していても、川上機関大尉は自分の命も名も捨てて行かれたのだ。それをどうしていえるものか。俺は貴様みたいにおしゃべり病にかかってはおらん。――あわわ、しまった。とにかくそういって杉田は泣いて私に見張を頼んだのであります。わ、私も泣きました。それで見張に立ちました。涙があとからあとから湧いて、見張をしてもよく見えませんでした。私は覚悟しています。どうか厳罰に処してください」
 一座はしーんと水をうったよう。誰か痍《はなみず》をすする者がある。
 眼を真赤にしている者がある。
「よおし、よくしゃべった。おい大辻、俺と一しょに艦長室へこい」
 そういった長谷部大尉の眼も赤かった。


   川上機関大尉の秘密


 波間に、杉田二等水兵の首が一つ、ぽつんとただよっている。
 南海の太陽は、いま彼の顔に灼けつくように照っている。
 彼は海面に波紋をたてぬように静かに静かに泳いでいる。クロールや、抜手にくらべるとはなやかではないが、この水府流の両輪伸《りようわのし》こそは遠泳にはもってこいの泳法だ。
 杉田二等水兵は、飛行島目ざして必死だ。
「うむ、もう一息!」
 この南シナ海には、無数の人喰鮫が棲んでいる。それに、下からぱくりとやられると、もうおしまいだ。
「川上機関大尉。私がそこへ泳ぎつくまで、どうか生きていて下さい。杉田はきっとお助けします」
 杉田二等水兵には、誰にもいえない、一つの秘密があった。飛行島へ川上機関大尉と一しょに上陸して、共楽街の前で左右に別れる時、機関大尉から重大なる用事をいいつけられた。
 それは帰艦の前に、その共楽街にある広珍という中華料理店に立ち寄って、一つの荷物をうけとって帰れ。そして帰ったら、俺の室に持って行ってその荷物をあけておいてくれ。これはその広珍という中華料理店で荷物を渡してもらう時の合札だといって、ボール紙の札を杉田に渡した。その札には、白い羽と赤い鶏冠《とさか》をもった矮鶏《ちゃぼ》の絵が描いてあった。
 杉田二等水兵は、その命をうけて、別れようとすると、川上機関大尉はなにを思ったか彼の傍へつかつかと近づいて、ぐっと手を握りしめながら、
「杉田、では頼んだぞ。それからもう一つ大事なことだ。その荷物をうけとって帰艦するまで、どんなことがあっても、俺が命令したということをしゃべっちゃいかんぞ」
 妙な命令だと思ったが、杉田は承知しましたと答えた。
「じゃあ、ここで別れる。時間まではゆっくり遊んで来い。気をつけてゆけ」
 そういって機関大尉は、またぐっと力を入れて杉田の手を握ったのであった。
 機関大尉は共楽術を奥の方へすたすたと歩いていった。そしてある店舗のかげに、姿を消してしまった。これが機関大尉を見た最後だったのである。
 杉田は、共楽街を散歩する非番の労働者やその家族たちと肩をならべて歩きまわった。そして手まねでもって、甘いココアを飲んだり、肉饅頭《にくまんじゅう》を食べたり、それから映画館に入ったりして時間いっぱいに遊びまわった。そして帰りぎわに川上機関大尉のいいつけどおり広珍に寄って、矮鶏《ちゃぼ》の合札とひきかえに、一つの荷物をうけとって帰艦したのだった。
 彼はすぐとその足で、荷物を川上機関大尉の室にもって入った。
 荷物はすぐに開けという命令だ。
 杉田は、この荷物の中に一体なにが入っているのか知らなかった。彼は早く中の品物をみたかった。さっそく包紙をやぶってみると、その中はまた紙包になっていた。なんのために、そう厳重にしてあるのだろうかと怪しみながら、二重三重の包紙をやぶって、やっと待ちに待った品物が、杉田二等水兵の眼の前に出てきた。それを見た時、彼は驚きのあまり、思わずあっと叫んだ。
 品物は一たい何であったろうか。
 白い機関大尉の軍服、軍帽、短剣、靴、襦袢その他のものであった。
「これはどうしたんだろう」
 杉田二等水兵は、自分の眼を疑った。調べてみると、これはたしかに川上機関大尉の着ていった服装だ。実に不可解なことだ。
 杉田はその時、包の中に一枚の紙切が入っているのを見つけた。彼は思わず胸をおどらせて、それを開いた。
 はたしてそれは、川上機関大尉の筆蹟で認《したた》められた杉田にあてた手紙であった。
 その文句は次のようであった。
「――杉田。驚カナイデ、ヨクコノ手紙ヲ読ンデクレ。
(一)コノ荷物ノ中身ガ何デアッタカ誰ニモイウナ。
(二)コノ品物ハスグチャントシマッテクレ。
(三)コノ手紙ハスグ焼キステロ。ソシテオ前ハ俺ノ行動ニツイテ、昼間飛行島デ別レテカラ後ノコトハ、スベテミナ忘レルノダ。オ前ガ秘密ヲヨク守ルコトヲ信ズル。タッシャデクラセ。川上」
 これは遺書だ。まさに川上機関大尉の遺書である。
 杉田二等水兵は、腰をぬかさんばかりに驚いた。
 なぜ川上機関大尉は、こんなことをするのか、彼には何にも分からなかった。
 しかしその次の瞬間、杉田は自分がいいつけられた重大な命令を思いだした。わけは分からないが、ぐずぐずしていては、いいつけに背くことになる。あの立派な機関大尉が、まちがったことを命ずるはずはない。こうなれば、その遺書に命ぜられたとおりを即時やるよりほかない。
 そう決心した杉田二等水兵は、いまにもめりこみそうな気持をひったてて、いいつけどおりに品物の始末をしたり、その惜しい手紙を焼きすてたりした。
 さてこれから一たいどうなるのだ。
 それから後、艦長に呼ばれたり、長谷部大尉に調べられたり、いろいろなことがあったが、最後まで川上機関大尉のいいつけを頑固に守り通したのだった。だが彼の胸中は、もうはりさけるようであった。
 彼も若い血のみなぎる人間だ。この上の我慢はとてもできなかった。遂に決心をして、大尉のあとを追い脱艦をすることとなった。――
 いま彼は、目ざす飛行島に見事泳ぎついたのだった。
 彼は監視員の眼をのがれるために、遠方から得意のもぐりをつづけて、橋構の間を分けて入り、かなり奥の方の橋構まで進んで、やっと水中から顔を出したのであった。
 橋構鉄塔にはいのぼると、彼は胴にまきつけてきた用意の白いズボンの水を絞ってはいた。腹から上は裸だった。何しろここは暑いところで、こうした半裸体の労働者が多いので、これで十分なのだった。
 起重機のがらがらという音だの、圧搾空気の鉄槌のかたかたかたと喧《やかま》しい響だの、大きなポンプの轟々と廻る音だのが、頭の上にはげしく噛みあっている。どこかでひゅーっと号笛《パイプ》が鳴るのが聞える。自分が忍びこんだのが見つかったのではないかと、ひやりとした。
 鉄塔のかげにかくれていたが、追ってくる人もないようなので、杉田二等水兵は、そこを出て、そろりそろりと甲板の方へよじのぼっていった。こういうことなら、水兵さんだけに得意なものである。
 彼はやがて川上機関大尉の荷物をうけとった広珍料理店前にやって来た。
 そこで、彼はしばらくためらった後、思い切って店内へ足を踏みこんだ。


   広珍料理店


 飛行島に泳ぎついた杉田二等水兵は、その足ですぐ共楽街の広珍料理店にとびこんだ。
昨日、機関大尉の荷物を受取ったあの料理店である。
 この杉田二等水兵の姿というのがたいへんだった。腰から下に白ズボンをはいたきり、そして胴中から上はなに一つまとっていない赤裸だった。しかし潮風にやけた体は赤銅色で、肩から二の腕へかけて隆々たる筋肉がもりあがっているという、見るからにたくましい体格であった。
 このとき、店内には、客は一人もおらず、白い詰襟の上下服を着た中国人ボーイが五六名、団扇《うちわ》をつかって睡そうな顔をしているところだった。そこへ杉田二等水兵がぬっと入ってきたものだから、一同はびっくりして、玩具《おもちゃ》の人形のように椅子からとびあがった。しかし杉田の半裸体姿を見ると、なあんだという顔をして、又椅子につき団扇《うちわ》をぱたりぱたり。
「おい、ちょっとたずねるが、昨日俺がここへ来たことを覚えているだろうね」
 と、杉田二等水兵は、おもいきり大きな声で叫んだ。
「……」
 中国人ボーイたちはきょとんとして、互の顔を見合うばかり。日本語なんか、ちっとも分からないという風だ。
 日本語のほか知らない杉田二等水兵は、は
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