ている。
 梨花は扉《ドア》のそとに小さくなっている。
 杉田二等水兵は、上官の正体が見破られはしないかと、ベッドの中ではらはらしている。しかし川上機関大尉はおちつきはらって、窓枠に硝子板をはめて、パテをつめている。
 そこへ駈けこんできたのが、スミス中尉であった。スミス中尉が駈けこんでくる時には、きっと一大事が起っているものと考えてよい。リット少将は、またかというような顔をして、看護婦の肩から手をはなした。
「閣下、一大事でございます」
「どうもそうらしいね。労働者がさわぎだしたとでもいうのか」
「いえ。そんなことではありません、香港経由の東京電報です。これをごらんください」
 と、スミス中尉はリット少将の前に、数枚の紙片をさしだした。
 窓枠にのぼっている川上機関大尉の眼がぎょろりとうごく。
「うーむ、――」
 とリット少将は紙片を見つめたまま、ひくいうめきに似た驚きの声をあげた。
「横須賀軍港付近において英国水兵殺害さる。加害者は日本少年。――ふーむ、なんという野蛮な国だろう」
 と、少将は自分の国のずるさや野蛮さは棚にあげて、つぶやいた。
 次の一枚の電文には、その事件がくわしくしるされていた。
 それによると、横浜港に入港していた英国巡洋艦ピラミッド号の一水兵が、横須賀軍港近くの小高い丘で、桜井元夫という中学生に刺し殺されたというのであった。
 その少年の告白によれば――
 水兵が要塞地帯の写真をとっていたので、注意すると、水兵は、はじめぎょっとした様子であったが、あたりに人通りのないのを見すますと、ナイフを揮って襲いかかって来た。そこで少年は必死に逃げたが、遂に崖のところに追いつめられて絶体絶命となったので、已むなく習い覚えた柔道の手でナイフを奪いとりざま、相手をつきとばした。その時運悪くナイフで急所をついた。――というのであった。
 が、理由はともかく、光栄ある英国海軍の水兵が、日本人の手によって殺害されたということは、由々しき一大事だというのであった。
 日英関係のけわしい折柄、英国が、これを国交上の大問題としてとりあげたのは、尤もなことであった。
 今からちょうど百年前、英国は中国を相手に阿片《あへん》戦争をおこしたが、この時たった一人の英人宣教師が殺されたのを口実として、あの香港を奪いとって今日におよんでいるのである。英領|埃及《エジプト》においてしかり、英領印度においてしかり、英領アフリカ植民地においてもまた同様であった。英国のこれまで他国を奪いとるときに用いた手段は、いつもこれであった。
 リット少将は、電文をよみながら、奇異な叫声をあげたが、やがて、うす気味悪い笑を口のあたりに浮かべると、
「ふーん、いよいよ面白くなって来たぞ。この分では、意外に早く、飛行島の威力をしめす時が来るかも知れぬ」
 つぶやくようにいうと、東京電報をスミス中尉にかえし、ベッドに横たわる杉田二等水兵の方をぐっとにらみつけた。
 その時川上機関大尉は、すっかり窓硝子の入替えをおわって、下におりた。そしてなにくわぬ顔をして、リット少将とスミス中尉の間をすりぬけ、いまや扉に手をかけようとした時、スミス中尉は腕を伸ばして、
「あ、待て!」
 と大喝一声、川上機関大尉の腕をねじりあげた。
「あ痛、たたた、――」
 と、川上は顔を伏せてわざと痛そうに悲鳴をあげると、スミス中尉は威たけ高になって、
「貴様だな、昨夜飛行甲板の上いっぱいに、ペンキでいたずら書をやったのは」
「そんなことを――」
「黙れ。貴様の手首にくっついている黒ペンキが、なにもかも白状しているぞ。なぜあんなことをやった。これ、こっちへ顔を見せろ」
 といったが、その時スミス中尉の心臓はどきっととまりそうになった。
「あっ、貴様はこの前の怪中国人!」
 中尉は、リット少将に眼くばせすると同時に、非常呼集の笛をひょうひょうと吹いた。
 それに応じて、廊下にどやどやと入りみだれた靴音が近づいてきた。警備隊員が銃をもって駈けつける音だ。
 いまはこれまでと、川上機関大尉は観念した。この敵をなぐり殺すことなどは、さしてむつかしいことではないが、自分にはもうすこし果さなければならぬ重大任務がある。ここは一刻も早く逃げることだ。
 だが警備隊員はすでに入口にせまっている。ほかに出口はない。リット少将もスミス中尉もピストルを持っているだろう。とすると遂に袋の鼠となりはてたのか。
(捨身だ!)
 とっさに肚をきめた川上機関大尉は、
「えい!」
 と叫んで身をしずめた。
「うーむ」
 スミス中尉は脾腹をおさえ、その場に倒れた。川上磯関大尉得意の当身《あてみ》であった。
 リット少将はさすがに武将だ、いちはやくベッドのうしろに隠れて、ピストルを乱射する。入口からは、遂にわーっと警備隊員が銃剣をきらめかしてとびこんできた。
「杉田、起きあがっちゃいかんぞ!」
 と、川上大尉は大声で叫んで室の真中に仁王立ちとなった。彼の手には、窓硝子を挟んできた二枚の板片が握られているばかりで、他に弾丸や銃剣をふせぐべき道具はなに一つもちあわしていない。
 ああわれらの大勇士川上機関大尉の運命やいかに?


   離れ業


 われ等の大勇士川上機関大尉が危い!
 重大命令をうけて秘密の飛行島に忍びこみ、幾度か危い目に遭いながらも、今までは武運にめぐまれて、どうにかきりぬけて来た彼――その彼にも最後の日はついに来たのか。思えば無念ではないか。
 あと二日で、飛行島は、試運転をやろうというのである。そして、どこかに隠されてある二十インチ砲が、大空にむっくりと恐しい姿を現すところが見られるというのである。
 わが日東帝国のため、いよいよこれから本当の腕をふるって貰わねばならぬという時、部下思いの川上機関大尉は、杉田二等水兵を見舞ったばかりに、変装を見破られてしまったのである。
 飛行島建設団長リット少将と警備隊員は、彼を、ぐるりと取りまいて銃口をつきつけた。
 機関大尉は、とっさに強敵スミス中尉を、突き倒したが、敵は多勢、味方は一人、しかも敵の人数は刻々ふえるばかりである。最早どうすることも出来ない。機関大尉は、ついに部屋の真中に身うごきもならず、突立ったままであった。
「杉田、貴様は起きるなよ」
 この期におよんでも、自分の身を心配する前に、部下の杉田のことをしきりに気づかっている。
「上官!」
 と、杉田はベッドの上で、歯をばりばりとかみあわせて悲痛な思だ。いくら起きるなと命令しても、いま自分の前で上官が射殺されようとしているのだ。
「杉田、俺のことなら心配するな。俺は大丈夫だ!」
「でも、――」
 早口に叫ぶ川上機関大尉、上官の自信ある言葉をかえって心配する杉田二等水兵。
 一秒、二秒、三秒……
(もう、こちらのものだ)リット少将はじめ警備隊員が、そう思ったのも無理はなかった。
 沈勇なる川上機関大尉は、その相手の心のちょっとしたゆるみの瞬間を狙っていたのだった。
「ええい!」
 と一声、室内の空気を破るすごい気合が聞えたかと思うと、驚くべきことが起っていた。彼の体を弾丸のごとく縮め、硝子窓の真中めがけてぶっつけたのであった。いや、ぶっつけたのではなくて、その大きな窓硝子を全身でもってうちやぶり、外へとびだして行ったのであった。
 がちゃん、がらがらがら。
 ひどい音だ。その音が、リット少将の耳にはいった時は、機関大尉は、硝子の破片もろとも、窓の外へおどり越えていたのであった。
 二枚の板片――彼が両手にしっかと持っていたその板片は、この大冒険にあたって、彼の顔面がじかに窓硝子に当って大怪我をするのを安全にふせいだのであった。
 機関学校時代、機械体操にかけては級中に鳴りひびいた川上機関大尉であればこそできた離れ業であった。
「ああ!」
「おお!」
 さすがのリット少将も、また警備隊員達も、この早業にすっかり胆をつぶしてしまって、藁人形のように窓硝子の穴を呆然とみつめるばかりであった。
 杉田二等水兵は、胸がすーっとした。そして、
「おお!」と、思わずうなった。こんな痛快なことがまたとあろうか。もう死んだものと諦めた刹那《せつな》に、ぱっと生きかえったのである。死中に活を求める。これこそ日本にのみ伝わる武芸の神秘であった。
「おい、お前たち、なにをしている。早く追え!」
 リット少将の、われ鐘のような怒声に、警備隊員たちは、やっとわれにかえった。
「あっ、向こうへ飛びおりたぞ」
「逃がすな」
 すぐさま二手にわかれて川上機関大尉のあとを追いかけた。が、機関大尉が、いつまでも追って来る彼等を待っているはずはなかった。
 窓枠の上にのぼり、こわれた窓から外を恐る恐る覗いた警備隊員の顔と、一方外から、大廻をして破れた窓を見上げた警備隊員の顔とが、上からと下からとくすぐったく視線をぶっつけ、
「ちぇっ、逃げられたか」
「恐しくはしっこい奴めだ」
 と、つぶやきながら横を向いてしまった。飛行島のアンテナ線にとまっていた阿呆鳥の群が、このとき白い糞を下におとして、藍をとかしたような大空にぱっと飛び立った。


   懸賞の首


 自室に戻ったリット少将の、怒った顔こそ、この飛行島ができてからこの方の大見物であった。
「ばかめ、ばかめ、大ばかめ!」
 自分自身を罵るように呶鳴り散らしながら、絨毯の上をどすんどすんと歩きまわるのであった。
「相手は、たった一人ではないか。たった一人の東洋人を捕らえかねて、島内がまるで蜂の巣をつついたように騒ぎまわっているとは、一たい何たるざまだ。リット、お前は、何のために、大勢のすぐれた部下を率いているのだ」
 日頃から、われこそ、大英帝国の名誉を傷つけぬ名将と、自負しているリット少将としては、この無念さは、無理からぬことであった。
「このままでは、捨ておけん。いかなる犠牲を払っても、奴をひっ捕らえるのだ。そして八つざきにしてやるのだ」
 そこへ、リット少将お気に入りのスミス中尉が、姿をあらわした。
「閣下、さきほどは不体裁なところをお目にかけまして申しわけありません」
「おおスミス中尉か。君は武芸にかけてはたいへん自信があるようなことをいっていたが、東洋人にはききめがないらしいね」
「恐れ入りました。それにしても、どこにどうして生きていたのか、死んだとばかり思いこんでいた川上が、生きていて、甲板に妙なものを書いたり、火をつけたり、又硝子屋などにばけて、島内を騒がせていようとは夢にも思いませんでした」
 中尉は、先刻、脾腹をしたたか突かれて眼をまわしたので、このことにつきこれ以上、話をするのは損だと思った。そこで、
「閣下、これからあの川上に対する処置は、いかがなさいますか」
「そのことだて」
 とリット少将は、また苦虫をかみつぶしたような顔になり、
「もう試運転まであと二日しかないというのに、あの川上を、このままにして置くことはできない。そうだ。これから島内大捜索を命令しよう。それには大懸賞に限る。川上を生捕にした者には二千ポンド(一ポンドは現在約十七円位)の賞金を与える。また川上を殺した者には、一千ポンドを与える。どうだ、これなら顔の黄いろい労働者たちも、よろこんで川上を追いまわすにちがいないではないか」
「二千ポンドに一千ポンドですか」
「そうだ、賞金が少いとでもいうのか」
「そうです。川上があと二日間に捕らえられなければ、この飛行島は試運転を思いとどまらなければなりません。
 今朝も聞きましたが、横須賀軍港付近において、わが水兵が日本の少年の手によって殺害された大事件から、英日両国の間は急に悪くなり、いつどんな事が起るかもしれない様子だというではありませんか。わが飛行島のためには、又とない機会《チャンス》がいま来ようとしているわけです。
 ところがです、その前に彼が飛行島の秘密を探って、本国へ知らせたらどういうことになりますか。油断のならぬ日本海軍のことですから、何をはじめるか分からないではありませんか」
「わしにもそれくらいのことは、ちゃんと分かっているよ、そうくど
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