。二人の看護婦がその手押車について、甲板へと出た。それからエレベーターによって、何階か下に下っていった。
「俺をどうするつもりだ」
と杉田二等水兵は叫んだ。
すると、待っていましたとばかりに、ヨコハマ・ジャックが寄ってきて、看護婦のとめるのもきかず、杉田の肩をこづいた。
「さあ、とうとうものをいったな。貴様は勝手な奴だ。だがいい気味だ。いまびっくりするものを見せてやるぞ」
「びっくりするものって何だ!」
「うふん、驚くな、いいか。貴様が杖とも柱とも頼む川上機関大尉の死体だ」
「ええっ、な、な、何だって?」
「あっはっはっ、いよいよ貴様も、木から落ちた猿と同じことになったよ。ざまをみろ」
ジャックは憎々しげにいい放った。杉田二等水兵は腸《はらわた》を断たれる思《おもい》であった。ああ、わが川上機関大尉も遂に悲壮な最期をとげられたか、――車は、観念の眼《まなこ》をとじた杉田をのせていよいよ現場についた。
するとリット少将から意をふくめられたジャックが、杉田のそばへよってきて、
「さあ杉田水兵、ここにころがっている死体を見ろ。お前の上官だ。川上機関大尉だ」
と、杉田の肩をつついた。
杉田は、寝台の上で、思い悩んだ。会いたい、見たい。いやとびつきたい程の思であるが、上官の亡骸《なきがら》に、生きて相見《あいまみ》えることは部下として忍びないものがあった。
「おい、杉田、お前は大尉に会いたくないのか?」
とジャックはあざ笑いながらうながした。
杉田二等水兵は、遂に心を決したらしく、体を動かした。二人の看護婦は、それをうしろから抱きおこした。
傍に並ぶリット少将はじめみんなの眼は、杉田の顔の上に吸いつけられたようになっていた。あたりはしーんと水をうったように静まりかえった。
死体の上にかけられてあった布がさっと取り除かれた。
「さあどうだ」
と同時に、
「うーむ、――」
杉田水兵は両眼をかっと開いて、死体の顔をじっと見つめた。リット少将はぐっと唾をのみこんで息をこらした。その次の瞬間、杉田の眼から涙がぽたぽた湧いてきた。彼は、
「ああ川上機関大尉!」
と、上ずった声で叫ぶと、両手で顔を隠して、おいおいと泣きだした。
「うむ、やっぱり川上だった」
と、リット少将は、「カワカミ」という名を呼ぶ杉田の声を聞いて、そうつぶやいた。
「どうです、閣下。杉田は、あのように涙を流して泣いています」
と、中尉は得意そうに相槌をうった。
杉田は、いつまでも声をあげて泣きつづけていた。
ああ、われらの川上機関大尉は、武運つたなく、遂に冷たい亡骸となり果ててしまったのであろうか。――
諸君!
嬉しいことには、事実は全くの反対であったのだ。杉田二等水兵は、嬉し泣きしているのであった。その死体は、見も知らぬ中国人であったのだ。
「川上機関大尉は、どこかに必ず生きている!」
そう思うと、嬉し涙が、あとからあとからと湧いて停らない。それをリット少将たちは、悲しみのあまり泣くのだと誤った。
日本兵は嬉しい時には泣くけれど、悲しい時には一滴の涙をも出さぬように修養しているのを知らなかったのだ。
ああ川上機関大尉! と叫んだのは、杉田が早くもこの場の空気を感づき、自分が上官の首実検に使われているなと知って、一世一代の大芝居をうったのであった。
日本の一水兵の作戦は十分効を奏した。そしてリット少将以下の飛行島の幹部は、すっかり騙されてしまった。
(これでいい。川上機関大尉の捜索隊は、これで解散になるだろう)
と、杉田は泣きながら、上官の武運を祈った。
飛行島の幹部連は、すっかり安心してしまった。
それにしても一たい川上機関大尉は、どうしてあの難を免れたのだろう。それはいずれ彼が再び諸君の前に現れるとき明らかとなるであろう。
南シナ海にようやく風が出て、波浪が高くなってきた。この時、連合艦隊から重大命令をうけた、わが最新潜水艦ホ型十三号は一路飛行島に近づきつつあった。
哨戒艦現る
半かけの月は水平線の彼方に落ち、南シナ海は今やまっ黒な闇につつまれている。
昼間の、あの焼けつくような暑さは、もうどこへやら潮気をふくんだ夜風が、刃物のように冷たい。
風がつのってきたらしく、波頭が白く光る。それがわが潜水艦ホ型十三号の艦橋に立つ当直下士官の眼にも、はっきりわかった。
艦は今、鯨のような体を半ば波間に現し、針路を西南西にとって、全速力で航行中だった。舳《へさき》を咬む波が、白い歯をむきだしたまま、艦橋にまで躍りあがってくる。
当直下士官は、すっかり雨合羽に全身をつつみ、胴中を鉄索にしばりつけて、すっくと立っている。
頭巾の廂からぽたぽたと潮のしずくが垂れる。すると風が下からどっと吹きあげ、霧のようになって顔をうつ。それでも、いささかもひるむ気色なく、墨をながしたような前方の深い闇を、じっとにらんでいる。
そのうちに風は雨を含んでますますつのり、舳を越えてどどっと崩れかかる波浪はますますたけりくるう。艦体は、前に後に、左に右にとゆれながら、海面を縫って難航を続けた。
しばらくして、ジジジ……と電話のベルが鳴った。
下士官は右手をのばして電話機をとりあげた。
「はあ、艦橋当直」
「こっちは艦長だ。どうだ入野《いりの》一等兵曹、あと三十|浬《かいり》で飛行島にぶつかる筈だが、西南西にあたって、なにか光は見えぬか」
「はい、なにも見えません。只今艦橋は豪雨と烈風にさらされ、全然遠方の監視ができません」
「そうか。苦しいだろうが、大いに頑張ってくれ。なにか見えたらすぐ知らせよ」
「はっ、畏《かしこ》まりました」
それから十分ほど過ぎた。
雨脚が急に衰え、雲が高くなったようである。
艦橋に立つ入野一等兵曹は、行手にあたって、ほの明るい光のかたまりを見出した。夜光の羅針儀の蓋をとってみると、その光物は正に西南西の線上にあった。
「おお、あれこそ飛行島にちがいない」
入野は直ちに電話機をとって、
「艦長へ報告、西南西にあたって、光を放っているものが見えます」
「見えたか。よし、見失わぬように監視をつづけていよ」
「はい、承知いたしました」
電話が切れると間もなく、艦橋の下の昇降口があいて、そこから艦長の丸顔が現れた。あとには先任将校が続いてのぼってくる。狭い艦橋の上は、芋を洗うようにお互の体がぶつかった。
「おお、あれだな」
と艦長水原少佐が、入野のところへよってきて、白い手袋をはめた手をあげた。
「そうであります。望遠鏡でみますと、飛行島の甲板上に点っている灯が点々と見えます」
「そうか。まだ気がつかないのか、一向警戒をしている様子が見えないね。しかし、もう向こうの哨戒圏内に入ったとみなければならぬ」
と、艦長の声が終るか終らないうちに、突然右舷はるかの海面からぴかーりと探照灯が一本、真青の光をあげて流れ出た。
「艦長、哨戒艦のようです」
と副長が叫んだ。
「うむ、距離はいくら、速力は、針路は――」
「はい。――観測当直、右舷に見ゆる哨戒艦を測れ」
すると観測当直が、すぐさま測って大声で返事をした。
そのうちにも探照灯は一本から二本になり三本になり、しきりに海面を照射した。おそろしいものである。わがホ型十三号潜水艦が、風雨の中にこの海面にまぎれこんだのを、たちまち勘づいたのである。
いくたびか探照灯はわが潜水艦の傍をすりぬけたが、幸いにも発見されなかった。しかしこのままでは早かれ晩かれ、この艦橋や半ば海面にあらわれている艦体が、あの探照灯の眩しい光の中に照らし出されずにはいないであろう。それはもう時間の問題であった。
それを知ってか知らでか、水雷長はまだ潜航命令を発してはおらぬ。
「艦長、飛行島がしきりに灯火を消していますぞ」
入野が呶鳴った。
「うむ、分かった。それでは――」と叫ぶなり艦長は副長に耳うちした。
五秒、十秒、十五秒……。哨戒艦の探照灯は、ようやくこっちの方向を嗅ぎつけたらしく、どれもこれも近くへ集ってきた。
もしその光のうちに、捕らえられてしまうと、次の瞬間、敵の砲弾はおそろしい唸をあげてわが頭上に落ちてくるものと覚悟しなければならない。
そのとき艦長は叫んだ。
「艦載機一号、出動用意!」
突如発せられた命令を、伝令兵は伝声管によって、艦内へ伝えた。
空襲警報
艦載機一号の操縦者は、柳下航空兵曹長だった。命令の出たときには、すでに空曹長の用意は全部整っていた。
「柳下空曹長です。一号機の出発用意よろしい」
すると艦橋の艦長は、わざわざ伝声管にとりついて、重任の柳下航空兵曹長に、こまごまと任務について訓令するところがあった。
「――分かったな」
「はい」
と空曹長は早口に復誦した。
「よろしい、出発。武運を祈る」
「はっ、では行ってまいります」
と、空曹長は隣の家へでも、出掛けるような気軽さで、愛機の席についた。
命令一下、艦橋の下に隠れていた扉《ドア》が、ぱっと左右に開くと、バネ仕掛のようにカタパルトが顔を出し、その次の瞬間、轟然たる音響もろとも風を切ってぱっと外にとびだした軽快な一台の艦載飛行機! それこそ柳下空曹長の操縦する一号機であった。
暗澹たる空中に、母艦をとびだした艦載機の爆音が遠ざかって行った。
「柳下、しっかりやれ。頼むぞ」
誰かが叫んだ。
艦長以下幕僚たちはいずれも見えない空を仰ぎ、暗の空にとびだしていった勇士の前途に幸多かれと祈った。
その途端――
艦橋が、真昼のように輝いた。
哨戒艦の探照灯が、とうとうわが潜水艦をさぐりあてたのである。
艦橋に立つ艦長以下の群像は、濃いかげに区切られて、くっきりと照らしだされた。――探照灯は、もう釘づけになって艦橋から放れない。
「うふ。とうとうお眼にとまったか」
と、艦長はにっこりと微笑《ほほえ》み、
「よし、では急ぎ潜航用意。総員艦内に下れ!」
と、号令した。艦は直ちに潜航作業にうつった。
艦長が一声叫べば、あとは日頃の猛訓練の賜《たまもの》で、作業は水ぎわだってきびきびとはかどるのであった。
僅か三十秒後、艦はもうしずしずと波間に沈下しつつあった。
それから一分の後、艦橋もなにも、すっかり海面から消え去った。あとにはほんのすこしの水泡《みなわ》が浮いているだけ――その水泡もまたたく間に、波浪にのまれて、見えなくなった。
なんというすばらしい潜水艦であろう。
闇の中には柳下機の爆音も聞えず、吹きつのる烈風の声、波浪の音のみすごかった。ああわが艦載機の行方はいずこ?
× × ×
こちらは、飛行島であった。
恐るべきスパイ川上機関大尉は、今は冷たい骸《むくろ》となって横たわっているし、もう一人の杉田二等水兵は重傷で、病室に監禁してある。まずこれで連日の心配の種は、すっかりなくなった。今夜は枕を高くしてねむられるわいと、飛行島の建設団長リット少将以下、賓客のハバノフ氏にいたるまで、いずれもいい気持になってぐっすり寝こんでいたところであった。そこへ俄かに空襲警報、寝耳に水とは、まさにこのことであったろう。
それは飛行島はじまってはじめての空襲警報だった。
しかし、まさかここまで日本の飛行機はやって来まい。万一来るようなことがあっても、途中には幾段にも防空監視哨をこしらえてあるから、それに見つかって、香港あたりの空軍が渡り合うだろうくらいに考え、防空訓練は実は大して身を入れてやっていなかったのであった。
だから、さあ怪しい潜水艦隊と渡洋爆撃隊が飛行島へ攻めてきたということが、島内各部へ伝わると、上を下への大騒ぎとなった。灯火管制班が出動して電灯を次から次と消させてゆくが、なかなかうまくゆかない。
それでも兵員がついているところはあらまし消し終え、大事なところだけは、ほぼ闇の中につつまれた。
この報告は直ちにリット少将のところへもたらされた。少将はさすがに英海軍の猛将だけに狼狽の色も見せず、昼間と同じくきちんと服装をと
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