南シナ海の真只中の飛行島において、語るは英国人リット少将とソ連人ハバノフ氏であった。
 恐るべきユダヤ人の大陰謀ではないか。
 ああわが東洋の君主国日本には、誰一人、この大陰謀を知る者はないのであろうか。……


   変なペンキ塗工


 その時であった。
 英国士官の服をきた一人の英人が、手に一枚の紙片を握り、顔の色をかえて、リット少将のいる塔の方へ甲板を小走りにやってきた。
 塔の入口に駈けこもうとしたとき、いきなり英国士官の頭の上にがたんと音がしてなにか硬いものが落ちてきた。――見るとそれはペンキがべたべたついている刷毛《はけ》であった。
「おや」
 と思って上を見ると、塔の屋上にたてた檣《ほばしら》によじのぼって、ペンキ塗をやっていた中国人らしいペンキ工が、その刷毛をとりおとしたのだった。
「謝《シェ》、謝《シェ》」
 と、中国人は檣からするすると下りてきて士官の前にぺこぺこ頭をさげた。ペンキ工はどこで怪我したのか、頭部には繃帯をぐるぐるまいていた。
「気をつけろ」
 英国士官はむっとして、刷毛の方へ手をのばしたペンキ工の顔を、靴でもって力まかせに蹴とばした。
「あっ、――」
 中国人は尻餅をついた。鼻柱を足蹴にされたと見え、赤い血がたらたらと口から頤の方を染めた。
 英国士官はそれを尻目に、塔の中へかけこんだ。
 あとに残った中国人のペンキ工は、後にまわしていた片手をいそいで顔の前にもっていった。その手には一枚の紙片が握られていた。彼はその上にかかれた英文をいそいで読みくだした。
 そして直ちにその紙片を、塔の入口に近く眼につきやすいところへ捨てた。そして自分は、その場へぶったおれて、血だらけの顔をおさえながら、苦しそうな息を肩でついた。
 一旦塔の中に入った士官が、真青になってひきかえしてきた。彼は入口のところで、すばやく落ちている紙片を見つけた。
「ああ、よかった。ここに落ちていた」
 士官は紙片をひろいあげると、うさん臭い眼つきで、ペンキ工の中国人の方を見た。中国人は、顔中血だらけにして、うんうんうなりながらそこにへたばっている。それを見ると、士官は安心して、紙片を握ったまま塔の中に引返していった。
 広間にはリット少将が、お待ちかねであった。ハバノフ氏は、遠慮をもとめられたものか、そこにはもう姿がなかった。
「おお、スミス中尉。一体どうしたんだ」
「はっ、少将閣下」
 と、スミス中尉とよばれた若い士官はその場に直立不動の姿勢をとって、
「――只今、本島の通信班から緊急報告がまいりました。それによりますと、今しがた、本島内から意味不明の怪電波を発射したものがあったそうです。どうかこれをごらん下さい」
「なに、怪電波を発射したって」
 リット少将も、さすがにちょっと顔を硬ばらせて、スミス中尉のさしだした紙片を穴のあくように見つめた。
「――なるほど。秘密通信らしいものを出した者があるという。そしてわが通信班の送信機を全部しらべたが、どれもそんな電波を発射しないというのか。何者の仕業か。ふーむ」
 リット少将の眉には、さっと不安の色がただよった。
「おい、スミス中尉。飛行島で働いている連中の身もとは、あれほど厳重にやってあったのに、これを見ると、誰かスパイをはたらいている奴があるんだぞ。お前、すぐ警務班長を呼んでくれ。そして、飛行島内を大捜索するんだ。この秘密通信は、どうせ短波だから、スパイは背中にかつげるくらいの小さな機械を使っているのにちがいない。そういうものに気をつけて至急大捜査だ」
 スミス中尉が塔を出てゆくと、それと入れちがいに、どやどやと乱れた足音がして、広間へ入ってきたものがある。
 それは何者であったか。
 警務班長のマットン中佐が先頭にたち、あとにはヨコハマ・ジャックなどの荒くれ男が四、五人つきしたがい、その一行の真中には、半裸体のまま両手に手錠をかけられたわが勇士、杉田二等水兵がひったてられているのだった。
「少将閣下、日本の水兵が、この飛行島に入りこんでいるのを捉えてきました。ヨコハマ・ジャックなどの手柄です」
「なんだ、日本の水兵が入りこんでいたというのか。ふーむ、この男か」
 リット少将は、杉田の日焼した逞しい顔をじろじろと見つめ、
「なぜ君は、飛行島に残っていたのですか」
 通訳の下士官が、少将の言葉を杉田二等水兵に伝えた。
「……」
 杉田はもう観念していた。囚《とらわ》れの身となっては一言も答えるべき必要はない。
「ほう、手ごわいのう」と少将は不機嫌になって、
「君たちの仲間はいく人いるのかね」
 杉田二等水兵は、相変らず黙っている。
 リット少将は、じろりと杉田の方を見てから、にわかに作笑《つくりわらい》をし、
「わしは日本にいくども行ったことがある。日本の海軍士官とも親交がある
前へ 次へ
全65ページ中15ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
海野 十三 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング