んだ。日英海軍は昔から師弟関係にある。だからわしは、君を侮辱するつもりはない。しかしここはわしの支配する飛行島だ。なにごとも正直にいってもらわねばならん。そうすることが、日英海軍のあいだに横たわっている誤解をなくすることにもなるのだ。ねえ、分かるだろう。――君はなぜ飛行島に来たのかね」
 杉田二等水兵は、むっとした。日中戦争のときも、英国海軍はたびたび眼にあまる邪魔をしたではないか。なにが誤解だ。なにが師弟関係だ。世界大戦のとき英国海軍に力をあわせ、印度その他の英国領土を守ったり、運送船を保護したりして、恩こそ与えてあるが、こっちが恩になったことはないのだ。こんな癪にさわる話など聞きとうもない。その上、侮辱を加えられたり、調べられたりするくらいなら、死んだ方がましだ。こうなっては川上機関大尉を探すことは、まず百中九十九までむずかしい。
 彼は遂に死のうと決心した。帝国軍人は恥を知る。こいつらの慰みものになるくらいなら死んだ方がましだ。
「くそっ、――」
 杉田は隙をうかがい、体をひねって、彼をおさえている無頼漢をその場にふりとばした。そして相手のひるむ隙に、さっと入口から甲板の上へとびだした。
 英人たちはびっくりして、あとを追いかけた。この騒ぎにひきかえして来たスミス中尉も、一しょになって追いかけた。
 杉田二等水兵は、うしろに手錠をはめられたまま、死にものぐるいで甲板を走る。彼は海中にとびこむつもりだ。
 スミス中尉は、たまりかねてか、ピストルを右手にもちなおすと、杉田の背後めがけて覘《ねらい》をさだめた。
「こら、待て。撃っちゃならん」
 とリット少将が叫んだ。しかし時すでにおそかった。
 だだーん。
 銃声は轟然と、あたりにひびいた。
「あっ、――」
 舷の端へもう一歩というところで、杉田はもんどりうって転んだ。そしてそのまま甲板を越えて、杉田の姿は消えた。
 まっさかさまに海中へ――。
 そうなると手錠をはめられた杉田二等水兵は、泳ぐこともできないで溺死するほかないであろう。死は目前にあった。――
 が、そのとき不思議な運命が、彼の身の上にふってわいた。
 海中へひたむきに墜落してゆく杉田の体が、途中でぴたりと停ったのである。不思議なことが起った。
 だが、それは不思議ではなかった。落ちゆく杉田の体を、むずと抱きとめた者がいるのだ。それは一たい誰であったろう。
 それは外でもない。頭にぐるぐる繃帯をしたペンキ塗の中国人であった。リット少将とハバノフ氏の密談する塔の屋上で、檣《マスト》にペンキを塗っていたあの怪中国人であった。
 彼はなぜ、命がけの冒険をしてまで杉田二等水兵を抱きとめたのだろう。
 諸君! まことに不思議な怪中国人ではないか!


   軍艦明石


 練習艦隊須磨明石の二艦は、針路を北々東にとって、暗夜の南シナ海を航行してゆく。
 もう夜はかなりふけていて、さっき午後十一時の時鐘が鳴りひびいた。
 非番の水兵たちは、梁につりわたしたハンモックの中に、ぐっすり眠っていた。
 ただ機関だけが、ごとんごとんと絶間なく力強い音をたてている。
 明後日、香港につくまでは、こうして機関は鳴りつづけているだろう。
 が、二番艦明石の艦長室では、加賀大佐が、きちんと机に向かっていられた。
 机上には、十枚ばかりの同じ形の紙片が積みかさねてあった。艦長はその一番上の一枚に見入っているのだった。
「ふーむ、――」
 軽い吐息が、洩れた。
 一たい艦長は、なにを考えているのだろう。
 そのとき入口の扉がこつこつと鳴った。
「おう」
 やがて扉《ドア》が開いた。
 扉の外に直立不動の姿勢で立っていたのは第三分隊長長谷部大尉だった。
「さっきお電話で、私の願をお聞きいれ下すってありがとうごさいました。そこで早速伺いましたが……入ってもお差支えありませんか」
 と、長谷部大尉はすこし間のわるそうな顔をしている。
 というのは、さっき大尉は、艦長へこんな風に電話をしたのであった。
(艦長、お寝みになっていませんければ、御迷惑でもしばらく私の相手になってくださいませんか)
 すると艦長はおちついた口調で、
(よろしい。いつでもやって来たまえ)
 とこたえられた。
 大尉は大いに楽な気持で艦長のもとをたずねたのであるが、扉を開けてみると、艦長は形を崩しもせず、厳然と事務机に向かっていられるのである。
 大尉は、艦長と一杯のむつもりで、片手に日本酒の一升壜をぶらさげているのであった。
「さあ、こっちへ入りたまえ」
 艦長は、しずかにこたえた。
「はっ、――」
 と大尉は嬉しそうな顔をしたものの、まだ具合がわるいのか、
「ありがとうございますが、私、ちょっと出直してまいります」
 一升壜を置いて出直してこようと思った。
「まあ、いいじゃな
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