声のする方を見た。そこは真青な海原だった。絵に描いたような美しい夜の海原だった。少女の声は、すぐ下の波の間から聞えるのだった。
「誰か?」
「私です」
それは聞いたことのある声だった。しかしリット提督には、声の主の姿が見えなかった。
(不思議なことがあればあるもの……)
提督は念のために舷のところまで歩いていった。そして舷側につかまって下を見た。
「おお」
提督はぎくりとした。
舷側を洗う白い飛沫《しぶき》の上に、一人の少女の寝姿があった。梨花だ。中国少女の梨花だ。鋼鉄の宮殿の中を、栗鼠のようにちょこちょこととびまわって、雑用をつとめていた梨花の姿だった。
「梨花か。なぜそんなところに寝ているんだ。波にさらわれてしまうではないか。早く甲板へあがってこい」
「リット少将。私は、甲板へあがりたくてもあがれないんですの。リット少将、手を貸してください。私をひっぱりあげてください」
「ふん、厄介《やっかい》な奴じゃ。ほら、手を出せ」
提督は手を出して、梨花の手を握った。それはびっくりするほど冷たい氷のような手であった。少女一人くらいと思って、提督はひっぱりあげにかかったが、どうしたのか大盤石のように重い。
「うーん、これは重い。梨花どうしたのか。お前なにか腰にぶらさげているのではないか」
「ええ、わたくしの腰から下に、皆さんがぶらさがっているのですわ」
「皆って、誰のことだ」
提督は、ぎょっとして、改めて海面を見おろした。
そのとき不思議にも、海の中は電灯がついたように、明るくなった。そして梨花の腰から下にとりすがっている真青な顔をした二人の看護婦の姿が見えた。またその看護婦の下には、顔や肩を赤く血に染めた大勢の苦力《クーリー》がぶらさがっている。そのまた下に、川上機関大尉や杉田二等水兵も見える。そのほか印度人やフイリッピン人や白人や、見れば見るほど何百人というたいへんな数である。彼等は、海底に横たわる一隻の汽船の船腹を足場として、人梯子をよじのぼってくる。海底にある地獄の風景だ!
ぐーっと、肩もぬけそうな強い力が、リット提督を海中へひっぱりこもうとした。
「こら、無茶をするな」
そのとき提督は、海底に横たわる船腹にブルー・チャイナ号という船名を読んだ。
「あ、ブルー・チャイナ号! わしが沈めた汽船だ。さては、この連中は」
提督の背筋が急に冷たくなった。
「うっ、亡者ども、わしを海中へひっぱりこもうというのか。なにくそ、ひっぱりこまれてたまるか」
提督は、あぶら汗をかいて、うんうんうなりだした。ひっぱりこまれまいとするが、刻一刻、提督の体は舷を超えて海面へ落ちようとする。恐しい執念だ。――
「リット提督!」
提督の耳に、はげしく扉を叩く音が聞えた。
「ううーん、ううーん」
「提督、どうされました。スミス中尉です」
「なに、スミス中尉。お前もか」
と叫んだが、途端に提督は夢からはっと覚めた。彼はベッドの中で、自分で自分の喉をしめていたのだ。
「ああ夢だったか。恐しい夢もあったものだ。ああ、夢でよかった」
提督は、全身汗びっしょりだった。
つづいてはげしいノックの音!
「提督、ど、どうされました。スミス中尉です。早くここを開けて下さい」
「おお」提督はほっと大きな息をついて、ベッドからよろよろと下り、「スミス中尉か。いま開けてやる」
扉を開けると、外は真暗で、嵐を呼ぶ物凄い潮風が、ひゆうひゅうと鳴っていた。そして、きりっとした武装に身をかためたスミス中尉が、片手には手提《てさげ》電灯を、また片手にはピストルを握り、一隊の水兵をひきつれて立っていた。
非常呼集
「おお、スミス中尉か。よく来てくれた。しかし夜中、一たいこれは何ごとか」
リット提督は、心に覚《おぼえ》のある悪夢に虐《しいた》げられ、まだ幾分の弱気で中尉にすがりつかんばかりだった。
「ああ提督閣下」とスミス中尉は、まじまじと正面から顔うちながめ、
「御病気ではなかったのですね。それはよかった」
「うん、――」
「提督閣下。哨戒艦から、しきりに信号があります。どうもわが飛行島大戦隊を外部から窺っているものがある様子です」
「なに、外部から窺っているものがあるというのか。また日本の潜水艦か」
「いや、それはまだはっきり分かっていません。とにかく、わが戦隊は目下極秘航行中でありますので、無電を発することを禁じてありますため、信号がなかなかそう早くは取れないのであります。無電を出すことをお許しになりませんと、わが大戦隊はいざというときに、大混乱をおこすおそれがあります」
「いや、無電を出すことを許せば、わが飛行島大戦隊の在所《ありか》を、敵に知らせるようなものじゃ。そいつは絶対に許すことができぬ」
リット提督はこのへんで、やっとふだんの提
前へ
次へ
全65ページ中59ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
海野 十三 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング