と思ったが、もうおそい。
 足音はいよいよ近づいた。息をのむ間もなく、飛べば二足ほどの向こうの角へ一人の下士官が姿を現した。
(見つかった)
 下士官は、川上機関大尉のとびこんだ袋小路へ顔を向けた。そしてあっというなり、たじたじと後へさがったが、すばやく右手を肩にかけたサックに伸ばしたと思うと、とりだした一挺のピストル。
 もうおしまいだった。
「えい!」
 川上機関大尉の体が前かがみになったと思ったら、右手にさっと閃いた白刃《はくじん》!
 ばさりという鈍い物音と、う――むといううなり声とが同時におこった。下士官はピストルをがらりと投げすてると、首のところへ手をもってゆくような仕種《しぐさ》をしたが、そのときはもう甲板の上に、仰向けになって倒れ、呼吸《いき》がたえていた。
 じつに見事な腕の冴《さえ》であった。相手の下士官は、ついに一発の弾丸も放たないで、あの世へ旅立ったのだ。
「おお、この服装が欲しかったのだ」
 川上機関大尉の狙っていたお土産は、向こうから転がりこんだようなものであった。彼は駈けよるなり、早いところ倒れている下士官の服を脱がしてしまった。そしてすばやく自分の身につけた。傍に転がっている下士官帽も役にたった。彼はすっかり英国海軍の下士官になりすました。百八十|糎《センチ》の長身をもった川上機関大尉に、それはちょうど頃合の制服だった。
(やあどうも、すっかり結構な支度を頂戴してしまった。遺骸に御礼をいって、人に見られないうちに、片づけてしまおう)
 大尉は、下士官の遺骸を横抱にかかえ、舷側から海中へ放りこんだ。逆まく波は、その遺骸をのんでちょっとした水煙をたてたが、水音は嵐に消されて、それほど耳にたたなかった。
「おう、どうしたんだ」
 突然、うしろから肩を叩かれた。それはまったく思いがけないできごとだった。
 その瞬間、川上機関大尉の脳髄は、びりびりと痺れた。とうとう見つかったのか。
「おや、ここに変なものが転がっている。これは日本刀じゃないか。そして、あっ、たいへんな血だ! おい、これは一体どうしたんだ」
 とうとう最悪の場合となった。
 しかし、あわててはいけない。
「なあに、大したことではないよ」
「なに?」
「黙れ!」
 川上機関大尉は、くるりと身をかえすが早いか、相手の脾腹めがけて、得意の当身を一つ、どーんと食わせた。
「うーむ」
 へたへたと足許に崩れるようにのびたのを見れば、これも下士官だった。なんと弱い奴ばかりではないか。
(そうだ。杉田の用に、この下士官の服をもらってゆこう)
 川上機関大尉は、また相手の服をぬがせにかかった。
 ところが、この相手はなかなか手強い奴だった。彼は人事不省を装っていたのだ。だから川上機関大尉のちょっとの油断をみすますなり、隠しもっていた呼笛を口にあてて、ぴーいと一声高く、乗組員に急をつげた。
「うむ、やったな!」
 川上機関大尉は、電気にかかったようにとびあがった。そこへつけこんで、相手の巨漢は、むずと組みついてきた。
 川上機関大尉は、舷に押しつけられてしまった。大した力の相手だった。川上は懸命に、相手の胸許にこっちの頭をつけて、押し潰されまいと耐えているが、相手は勝ち誇ったように、いよいよぐんぐん押しつける。
 川上機関大尉の武運は、眼に見えて悪くなった。そうでなくとも、ここ連日の苦闘と空腹とに、かなり疲れている川上機関大尉だった。はりきった牡牛のような英国下士官とは、とてもまともな力くらべはできまいと思われた。
 そのとき、向こうの方で、あわただしく集合|喇叭《ラッパ》が鳴った。さっきの呼笛を聞きつけて、警備班が出動をはじめたらしい。早くも奥の通路から、入りみだれた靴音が聞えてきた。こうなっては、わが川上機関大尉がいかに勇猛であるといっても、敵勢を押しかえすことは、まず困難ではないかと思われた。
 壮図はついに空しく、わが大勇士川上機関大尉は飛行島の下甲板に散るのであろうか。
 もしそんなことがあれば、いま組立鉄骨の間に病体をしばりつけて、ひたすら彼のかえりを待ちわびているはずの杉田二等水兵は、どうなるであろうか。
 このときわが勇士の様子をみるなれば、彼は、猛牛のごとき敵の下士官とがっちり組みあったまま、一、二、三、四としずかに呼吸をかぞえていた。そして彼の眼は、ときどきちらりと足許に転がっている日本刀の方へうごいていた。
 川上機関大尉は、いま何を考えているのであろうか。
 飛行島戦隊は、この騒《さわぎ》をよそに、風雨荒れ狂う暗闇の南シナ海をついて、ぐんぐん北上してゆくのであった。


   消えぬ怨


「リット少将!」
 提督は、わが名を呼ばれてびっくりした。その声は少女の声であった。
「リット少将!」
 また呼んだ。
 リット少将は、その
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