今では飛行島上には、英人以外の乗組員はただ一人もいなかった。だから彼等二人は、よしや飛行島に泳ぎついたとしても、もし島内でその姿を発見されれば、たちどころに引捉えられなければならなかった。折よく飛行島は出航準備で島内の警戒がゆるんだので、二人の隠れ場所は安全となったが、それは一時のことである。彼等の運命は、依然として風前の灯であった。
 だが日東男児は、いかなる危険をも恐れない。いかなる艱難《かんなん》も、よくこれを凌《しの》ぐのである。ことに川上機関大尉には、まだはたしおわらない大任務があった。それは飛行島の偵察だ。いやそればかりではない。彼は一命を賭して、飛行島の爆沈を計画しているのであった。この恐るべき大飛行島を、このまま祖国の近海に近づけては、たまるものではない。二十インチの巨砲群、八十台にあまる重爆機隊、そういうものの狙《ねらい》の前に、一天万乗《いってんばんじょう》の君まします帝都東京をはじめ、祖国の地を曝させてはたいへんである。一命のあらんかぎり、彼は飛行島の爆破を断行する決心だったのである。
 杉田二等水兵は、上官の後を慕ってこの飛行島に泳ぎついたが、上官のこの大決心を察していた。彼は上官の腕となり脚となって働こうと思っていた。しかし不幸にも敵弾をうけて、今では平生の十分の一の力もない。自分が生きていたのでは、川上機関大尉が、自由に活動できない。この上は無念ながら、せめて自殺して、大尉の足手まといになることを避けたいと思ったが、早くもそれを悟った川上は、杉田二等水兵をきびしく叱りつけ、そして励ましているのだった。このところ杉田にとっては、生きるに生きられず、死ぬに死なれぬ苦しさであった。
「おい杉田」
 川上機関大尉の声だ。
「はい」
「俺はこれから、ちょっと上へのぼって、飛行島の様子をさぐってくる。お前は、短気をおこさず、ここに待っていろ」
「はっ。上官、杉田もぜひおつれください。私とて敵の一人や二人は――」
「いや、まだ襲撃をやるわけではない。いずれ襲撃をやるときは、かならずお前をつれてゆく。それを楽しみに待っておれ。今は偵察にゆくんだ。敵状を知らねば、斬りこみようもないではないか」
 と、川上機関大尉は持っていた日本刀の柄を叩いた。
 この日本刀は、大尉が一振、杉田が一振もっていた。こんなところで日本刀を手に入れたのは、不思議というほかはないが、実はこれにも神明の加護があったのである。それは川上がブルー・チャイナ号に乗船したときのことだった。彼は飛行島に潜入したときに近づきになった比島の志士カナモナ氏が数本の日本刀を持っているのを見て、無理にねだって、二本を譲りうけたものであった。それは二人の勇士にとって、この上もなき利器であった。
「はっ、では杉田は、ここで部署を守っております」
「よし、しっかり頼んだぞ」
「では、御無事を祈っています」
「うむ、行ってくる。くれぐれも短気をおこしてはならんぞ。――ああそうだ。俺が行ってしまって、力のないお前が、万一激浪にさらわれてはいけない。そういう危険のないように、お前の体を、この鉄骨にしばりつけておいてやろう」
 川上機関大尉の心は、どこまでも注意ぶかく、そして傷つける部下の身の上にやさしかった。


   小暗い下甲板


 川上機関大尉は、半裸体に、日本刀を背中に斜に負い、組立鉄骨をのぼっていった。
 鉄骨の表面は、海水にじめじめと濡れていて、リベットに足をかけると、そのままずるずると滑りおちて腕をすりむいたり、足の生爪をはがしたり、登攀《とうはん》はなかなか容易な業ではなかった。それでも三十分あまりの後、彼はとうとう最下層の甲板までたどりついた。
 甲板の隅で、川上機関大尉はしばらく息をいれていたが、そのうちに元気をとりかえしたものと見え、その狭い通路を匐うようにしてそろそろと場所をうごきだした。
 すると、真正面から、いきなりあらあらしい足音が近づいた。
 川上機関大尉は、はっと体を縮めるなり、飛鳥のようにカンバスのうしろにとびこむと、そのかげに平蜘蛛のようにぴったりとはりついた。
 やがて彼の眼の前を、長身の水兵が鼻唄まじりで、風のように通りすぎた。
(おお、気づかれずにすんだか。もちっとで鉢合せをして、呼笛でもふかれるところであった)
 川上機関大尉は、ほっと胸をなでながら、積みかさねられたカンバスの山のかげから姿を現した。
 すると今度は、反対に後方から、別のあらあらしい足音が聞えた。
(あっ、見つかってはたいへん!)
 もうカンバスの山にかえる暇はなかったので、思いきって通路を向こうへ、つつーと栗鼠《りす》のように駈けぬけた。
(どこか、隠れるところはないか)
 と、そこに見えた横道にとびこむと、これがなんと行きどまりの袋小路だった。
(しまった!
前へ 次へ
全65ページ中57ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
海野 十三 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング