梨花は声をあげて泣きだした。
杉田二等水兵はベッドに寝たまま、枕から頭をもたげ、
「おいおい、いい加減にして喧嘩はやめにしろ。――といったって、俺の日本語は一向相手に通じやしない。どうもこいつは弱った」
と、また頭を枕の上にどしんとおいて、眼をつむった。
「この硝子は高いんですよ。お前なんかが一年働いたって、二年働いたって、買えるような硝子じゃなくってよ」
と、白人の看護婦は、にくにくしげに梨花をにらみつけた。どうやら、まだまだ小言が足りないといった様子だ。
「あ、そうだ」
杉田二等水兵はまた枕から頭をもたげた。そして両手を出して、手真似をはじめた。
はじめ白人看護婦を指して右の人さし指を一本たて、こんどは梨花を指して左の人さし指を一本立てた。そしてそれを向かいあわせにもってきて、ぴょこぴょこさげ、両方の指がしきりにお辞儀をしているような型をやって見せた。
梨花は、顔をあげて、杉田二等水兵の指芝居をながめている。白人看護婦の方は、腕ぐみをしたまま、ちらと見て、
(わかっているよ、わかっているよ)
と、頤をしゃくってみせた。
杉田二等水兵は、尚《なお》仲直りをさせようとして、自分の両手をがっちり握りあわせて、しきりに上下にふってみせた。
「梨花、さっきお前がたのみにいった硝子屋は、まだ来ないじゃないか」
そういった白人看護婦の話から察すると、梨花はもうかなり前にこの窓硝子を破ったものらしかった。硝子屋に至急壊れた窓硝子を入れかえるように命じてあるものらしい。
「じゃ。もう一度、さいそくしてまいりましょうか」
「そうおし。早くなおしておいてくれなければ、あたしがドクトルに叱られちまうじゃないの」
梨花が、かしこまって、扉から出ようとした時、この扉の外からノックの音があった。
白人看護婦は、はっと胸をおさえて扉《ドア》の方を向いた。
と扉があいて入ってきたのは、大きな硝子板を抱えた中国人の硝子屋だった。
「まあびっくりした。硝子屋かい。ずいぶん前にたのんだのに、来るのが遅いねえ」
「へえへえどうも相すみません。すぐに入れかえますよ、美しいお嬢さま」
美しいお嬢さまと呼ばれて、看護婦はまあ――とうれしそうに眼を天井につりあげる。
とたんに、がしゃんと大きな音。
「きゃっ、――」
中国人の硝子屋が、硝子板のさきでもって、看護婦のそばにあった大きな花活《はないけ》を床の上につき落して壊してしまった。水がざあっと看護婦の白い制服にひっかかって、たいへんなことになった。
「あっ、あっ、あっ、これこのとおり、私、いくらでも弁償します。お嬢さん、ゆるしてください」
中国人の硝子屋はしきりとあやまる。
看護婦は、あまりのことに呆れて声もでないという風であったが、やがてつかつかと中国人のそばに寄ると見るまに、平手で彼の頬をぴしゃりとひっぱたいて、すたすたと部屋を出ていってしまった。
中国人の硝子屋は、怒るか泣くかするかとおもいのほか、にやと笑った。意外、流暢な日本語で、
「うふふふ、俺の頬っぺたをうったんじゃ、手の方がいたかったろう」
といった。ベッドの上の杉田二等水兵は、あっといったきり眼を皿のようにして怪中国人の顔をみつめたのも尤もであった。
この怪しい硝子屋の正体は、そもなに者であろう――いうまでもなく、さきに梨花としめし合わせておいたわれ等の勇士川上機関大尉の巧みな変装であったのだ。
「おお、あなたは。――」
とベッドの上におきあがろうとする感激の杉田二等水兵!
川上機関大尉は、それを制して、硝子板をそこへおくと、いそいで杉田の枕辺にかけよった。
梨花はけなげにも、扉の外に立って、見張にあたる。窓硝子は、彼女があやまって壊したのではなく、これぞ川上機関大尉のいいつけによってわざと壊したのであった。
再会
「ああ上官!」
と杉田は胸がせまってあとはいえない。
川上機関大尉は部下の手をぐっと握って、
「杉田、よく辛抱していたな。それでこそ、真の日本男児だ。銃剣をとって、敵陣地におどりこむばかりが勇士ではない。報国の大事業のため、しのぶべからざる恥をしのび、苦痛にこらえているお前も、また立派な勇士だ。しかし梨花にきけば、お前はこのごろ食事もあまりとらぬということじゃないか。そんなことをして体を弱らせておいては、いざという時に思いきった働きができないではないか」
川上は部下を励ましたり叱ったりした。これにはさすがの杉田二等水兵も一言もない。
「川上機関大尉。私が悪うございました。これからは体を大切にいたします。そしてどんなことがあっても望を捨てず、ご奉公の折の来るのを待ちます。申しわけありませぬ」
病床から、杉田は川上機関大尉の手をおしいただいた。
「うむ、よくいった。ここは敵地だ。
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