もあらば入りたそうである。
「とにかく、工場の方と連絡をしてみよう。彦田《ひこだ》博士に、ここへ来てもらおう」
「彦田博士?」
「君は、彦田博士を知らないのか。博士は、篤学《とくがく》なる化学者だ。そして極東薬品工業株式会社の社長だ。今、呼ぼう」
長官は、ベルを押して、秘書をよんだ。
「彦田博士を、ここへ案内してくれ」
「は」
しばらくすると、秘書の案内で、彦田博士が、部屋へはいってきた。
帆村が見ると、博士は、五十を少し越えた老学者であった。
そのとき、帆村は、ふと妙な感にうたれたのである。この彦田博士には、前に、どっかで会ったことがあると。
しかしほんとうは、帆村は、まだ一度も彦田博士に会ったことがなかったのであった。それにもかかわらず、博士に会ったことがあるような気がしたのは、別の原因があったのだ。そのことは、だんだんわかってくる。
長官は、両人を、たがいに引き合わせると、
「ところで、彦田博士。例のX塗料が手に入ったのです」
「えっ、X塗料が、ほんとうですか。いや、失礼を申しました。でも、あまりに意外なお話をうかがったものですから、あれが、まさか手に入るとは」
「そこに立っている帆村君が、大苦心をして、とってきてくれたのだが、惜しいところで、大きいのを紛失して、残ったのは、そこにある紙にのっているわずかばかりだけですわい」
と、長官は、卓子の上を指した。
「えっ、この紙ですか。どこに、それが」
博士が、面食《めんくら》うのもむりではなかった。帆村は、また冷汗をながした。そして博士に、残る微量のX塗料のことを説明したのであった。
「どうですか、博士。それだけの資料によって、X塗料の正体を、うまく分析ができるでしょうか」
博士は、非常に慎重《しんちょう》な手つきで、X塗料の粉の入った紙を目のそばへ近づけ、しさいに見ていたが、やがて、力なげに首をふった。
「彦田博士、どうですかのう」
「長官。これでは、微量すぎます。残念ながら、定量《ていりょう》分析は不可能です」
「出来ないのですな」
黄島長官は、はげしい失望をかくすように目をとじた。
彦田博士も、帆村荘六も、しばし厳粛《げんしゅく》な顔で沈黙していた。しかし、ついに博士が口を開いた。
「長官。何しろこの外に品物がないのですから、困難だと思いますが、私はこれを持ちかえった上で、出来るかぎりの手はつくしてみます」
「そうして、もらいましょう。われわれの一方的な希望としては、この資料により、一日も早く博士の会社で、X塗料を多量に生産してもらいたいのです。このX塗料を一日も早く多量に用意しておかないと、われわれは心配で夜《よ》の目もねむられませんからねえ」
黄島長官は、立ち上って、彦田博士に握手をもとめ、そして、つよくふった。
「それから、帆村君を、われわれの連絡係として、ときおりあなたの工場へ、使《つかい》してもらいますから、よろしく」
長官は、ことばを添《そ》えた。
捨子《すてご》は悲し
話はかわって、その後の房枝《ふさえ》はどうなったであろうか。
あのおそろしい雷洋丸の爆沈事件にあい、房枝は、死生の間をさすらったが、彼女ののったボートが、うまく救助船にみつけられ、無事に助けられたのであった。
彼女たちは、その明日の夕刻、横浜に上陸することが出来た。もう無いかと思った命を拾うし、そして故国《ここく》の土をふむし、房枝の胸はよろこびにふるえた。
ここで、彼女は、同胞《どうほう》のあたたかい同情につつまれて、涙をもよおした。
手まわり品や、菓子や、それから、肌着や服までもらったのである。そぞろ情《なさけ》が身にしみる。
だが、その一方において、外事課《がいじか》の係官のため、厳重な取調べをうけた。なにしろ国籍のあやしい者がぬからぬ顔で入りこんでくるのを警戒する必要があったし、その上、雷洋丸の爆沈原因をつきとめるためにも、生き残った人たちをよく調べる必要があったのである。
「あなたの原籍《げんせき》は?」
係官は、用紙をのべて、取調をすすめる。
「さあ」
房枝は、困ってしまった。彼女は、両親を知らない。だから、原籍がどこであるか、そんなことは知らない。
松ヶ谷団長がいてくれれば、ここは、うまくとりつくろうことができたのであるが、団長は大怪我《おおけが》をしたと聞いた後に、どうなったかよく知らない。
「原籍をいいなさい」
「原籍は存じません。あたくし、あたくしは、捨子なんです」
「捨子だって、君がかい」
係官は、眼鏡越しに、目を光らせた。原籍を知らぬ奴はあやしい。
「でも、おかしいじゃないか。君の話だと、この前、日本を出発して外国へ渡航したそうだね。そのとき、もし原籍を書かなければ、旅行は許可されないよ。そのとき、原籍はどこと書いたか、それをいいなさい」
係官は、明らかに、房枝を、うたがっている様子であった。
そうでもあろう、房枝は、日本人ばなれした大きなからだの持主だったし、皮膚の色も、ぬけるような白さだったし、外国で覚えた化粧法が、更に日本人ばなれをさせていた。
「団長さんと、別れ別れになってしまったものですから、よく覚えていないのですわ」
「それじゃ、君が日本人たることの証明が出来ないじゃないか。え、そうだろう」
「まあ、あたくしが、日本人じゃないとおっしゃるのですか。ひどいことをおっしゃいますわねえ」
「その証明がつかなければ、ここは通せない」
「では、あたくしたち、ミマツ曲馬団の仲間の人に、証明していただきますわ」
それから房枝は、いろいろと願って、生残《いきのこ》りの団員たちを呼びあつめてもらった。こんなときに帆村がいれば、どんなに助かるかもしれないのだけれどと、くやしくなった。
けっきょく、仲間の人たちの証言も、係官を納得させるほど十分ではなかったが、船員の中に、房枝が乗船当時調べたことをおぼえている者があって、その証言で、やっと上陸を許可された。ただし条件つきであった。
「常に、居所《いどころ》を明らかにしておくこと。毎月一回、警察へ出頭すること。よろしいか」
房枝は、今日ほど自分が捨子であることを、もの悲しく思ったことはない。原籍がわからないために、こんな疑いをうけるのである。
(ああ、お母さま、お父さま。房枝は、今、こんなに悲しんでいます。ああ)
彼女は、胸に手をおいて、心の中ではげしく、まだ見ぬ父母に訴《うった》えた。
この房枝のかなしみを、いつの日、誰が解《と》いてくれることやら。
やっと解放された房枝たちミマツ曲馬団員は、一まず横浜のきたない旅館に落ちついた。これから、一同の身のふり方を、いかにつけるのかの、相談が始まった。けっきょく、他に食べる目当もない一同だったから、人数は半分以下にへったが、ともかくも、空地《あきち》にむしろを吊ってでも、興行をつづけることにきめた。そしてその第一興行地を、今生産事業で賑《にぎ》わっている東京の城南《じょうなん》方面にえらび、どうなるかわからないが、出来るだけのことをやってみようということになった。
城南方面を第一興行地にしようじゃないかといいだしたのは、調馬師《ちょうばし》の黒川だった。彼は松ヶ谷団長にかわって、ミマツ曲馬団の名をつぐこととなった。
「さあ、それでは、俺《おれ》と、もう一人、女がいいなあ、そうだ房枝嬢がいい。二人で、これからすぐ城南へ出かけて、借地の交渉をしてこよう。それから、何とかして、衣裳《いしょう》の方も東京で算段《さんだん》してこよう」
「おい、黒川、いや黒川団長、城南には、お前、心あたりの空地があるのか。今は、空地がほとんどないという噂《うわさ》だぞ」
「なあに、大丈夫。俺は、いいところを知っているんだ。極東薬品工業という工場の前に、興行向きの地所があるんだ」
極東薬品工業? 聞いたような名だ。いや、それこそ彦田博士の工場であった。今そこでは、帆村の持ちかえった極秘の塗料の研究がすすめられている。
東京へ
房枝たちが養われている新興ミマツ曲馬団が、今後うまく立ちなおって、よい興行成績をあげるようになるかどうか、それは団員たちにとって、生きるか死ぬかの大問題だった。
吉凶《きっきょう》いずれか、いわば、その運だめしともいえる城南の興行の瀬ぶみに、房枝は新団長の黒川とつれだち、横浜をあとに、東京へ出かけたのであった。
これから先、はたして団員二十余名が、うまく口すぎが出来ていくであろうかと思えば、この下検分《したけんぶん》の使の責任は重く、目の前が暗くなる思いがするのであったが、それでも房枝は、メキシコにいるときから、いくたびとなく夢にみていたなつかしい東京の土地を踏むのだと思うと、やっぱりうれしさの方がこみあげて来た。
「あら、もう、ここは東京なのね」
省線電車《しょうせんでんしゃ》が、川崎を出て長い鉄橋を北へ越えると、そこはもう東京になっていた。房枝は、窓越しに、工場ばかり見える町の風景に、なつかしい瞳を走らせた。
新団長の黒川は、ふーんと、生返事をしたばかりで、電車の中にぶらさがっているハイキングの広告に、注意をうばわれていた。
(このごろのお客さんは、みんなハイキングにいってしまって、曲馬団なんかに、ふりむかないのじゃないかなあ。そうなりゃ、飯の食いあげだ)
と、この新団長には、車内の広告が、はなはだ心配のたねとなった。
電車が蒲田《かまた》駅につくと、二人は、あわてて下りた。
駅前にはバスがあるのに、黒川はそれに乗ろうとせず、てくてくと歩きだした。たとえ一円でも、これから先にはっきりしたあてのない今のミマツ曲馬団のふところには、ひどくひびくのであった。この団長さん、なかなかこまかい人物だった。
二人は、にぎやかな商店街をぬけて、なんだか、せせこましい長屋町に入りこんだ。そこは鼠色《ねずみいろ》の土ほこりの立つ、妙にすえくさいさびた鉄粉《てっぷん》のにおう場所で、まだ、ところどころに、まっ黒な水のよどんだ沼地があった。
だが、房枝には、こういう建てこんだ棟割長屋《むねわりながや》が、ことの外《ほか》なつかしかった。それは房枝が、まだ見ぬ両親の家を思い出したからだ。
(こうした棟割長屋のどこかに、自分の両親が暮しているのではないか)
そう思えば、房枝には、一軒一軒の家が、ただなつかしくて仕方がないのだ。家々には、大勢の家族がにぎやかに暮している。なにやら、うまそうに煮えている匂《におい》もする。赤ちゃんが泣いている。よぼよぼしたお婆さんが、杖をつきながら露地《ろじ》の奥からあらわれて、まぶしそうに、通《とおり》をながめる。飴屋《あめや》さんが、太鼓《たいこ》を鳴らしながら子供たちをお供にして通る。
どれを見ても、一つとして、房枝にはなつかしくないものはなかった。房枝は、いくたびか、通りがかりのその棟割長屋へ、
(お母さま、ただ今)
と、はいっていきたくなって、困った。まだ見ぬ親をしたう房枝の心のうちは、ちょっと文字《もんじ》にものぼせられないほど、いじらしかった。
「さあ、地所《じしょ》は、あそこに見える空地なんだが」
と、黒川が、とつぜん立ちどまって、
「ところが、あの空地の持主の飯村《いいむら》という人の家は、どこか、この近所にあったはずだが、どこだったかなあ。だいぶん以前のことで、度忘《どわす》れしてしまったぞ」
と、新団長は、溜息《ためいき》をついて、あたりを見まわした。房枝の夢みる心は、黒川のこえのした瞬間に破れ、とたんに彼女は、現実の世界に引きもどされた。
「さてこのあたりに、ちがいないと思うのだが、房枝、わしは、このへんをちょっと探してくるから、お前、しばらくここに待っていておくれ」
そういって、黒川は路傍《ろぼう》に房枝をのこして、あたふたと向こうへ歩いていった。
工場地帯
房枝は、ひとりになって、路傍《ろぼう》に立っていた。通りがかりのおかみさんや、三輪車にのった男や、それから、近所のいたずらざかりの子供たちが、房枝を、じろじろ
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