、おちる」
「大丈夫だ。お前さんの右手は、こうしておれがしっかり持っているから、大丈夫さ」
師父は、今はもうやむを得ないと思ったものか、左手をつかって、上着のポケットの中から、青い封筒をとりだした。トラ十は、上からそれをひったくった。
「これでよし。さあ、手をはなしてやる」
「いったい、君は何者だ。名前をきかせてくれ」
「おれのことなら、これまで君がやって来た、かずかずの残虐行為《ざんぎゃくこうい》について、静かに胸に手をあてて思出したら、分るよ。それで分らなきゃ、世界骸骨化本部へ、問いあわせたがいいだろう。お前たちの仕事のじゃまをするこんな面《つら》がまえの東洋人といえば、多分わかるだろうよ」
そういったかと思うと、トラ十のからだは、猿のように縄梯子の裏にとびついて、するすると下におりていってしまった。
怪人物《かいじんぶつ》
沈みかかった雷洋丸のマストの上におけるこの怪しい会見のことは、二人以外だれも知る者がなかった。
雷洋丸は、それからのち、トラ十の予言したとおり、第二の爆発がおこり、正しくいって、七分の後に、暗い海の下にのまれてしまった。
救難信号をうったが、あまりにも早い沈没のため、あいにくどの船も、間にあわなかった。かくて、船客や船員の約半数は、海の中にほうりだされた。
帆村探偵はどうしたであろうか。房枝はどこにいるか。
また、師父ターネフやニーナ嬢は、いったいどうしたであろうか。
師父ターネフといえば、この人は、トラ十のため、ついに仮面を叩きおとされたようである。トラ十は、師父のことを、ターネフ極東首領とよんだ。
ターネフ極東首領!
ターネフ首領とは、ほんとうに、そういう位にある人物であろうか。そしてそれはどんなことをする役目の人物であろうか。
ターネフが何国人であるか、それは分っていない。分っているのは今から二十年ほど前に、ターネフの名が、秘密結社「世界骸骨化クラブ」の会員として記録されたことである。
世界骸骨化クラブとは、いったい何であろうか。
これはおそろしい陰謀を抱く者の集りだ。この光明にみちたわれら世界人類の生活を、ことごとく破壊し去って、みじめな苦しい地獄の世界へ追いやり、人類に希望を失わせ、そして人類の最後の一人を骸骨にするまでは、この破壊行動をやめないという実におそろしい悪魔どもの集りなんだ。
なぜ、彼らは、そんなおそろしい陰謀を抱くようになったのだろう。これは結局、気が変な者どもの作った宗教だ。その宗教においては、神のかわりに、悪魔に祈るのだ。世の中から光明をうばい去り、暗黒と混乱と苦悩とを人類生活の上へよぶのだ。そして、一人でも多くの人類が苦しみ、なげき悲しみ、そして死んで行けば、それが彼らのいただく悪魔神《あくましん》を、よろこばせることになるのだと思っている。
とても、ふつうの心では考えられない。なにしろ気が変な者どもの集りだから、こんなとんでもない陰謀をつくりあげるのだ。
彼らは、不正なことで、巨額の富を集めた。今また集めている最中である。そしてこんど極東方面の平和を破壊するその手始めとして、日本における生産設備を大破壊することが、最高会議で決められた。そして本部の大司令は、ターネフを極東首領に任命し、こんど日本へ特派することになったのだ。
極東首領ターネフ。彼はこの二十年間に、骸骨化クラブの会員として、主脳部たちからたいへん信任を得たが、彼がこれまで活動していたのはメキシコ国内であって、もう十四年になる。こんどの指令によって、彼はここにメキシコ生活をうち切り、姪だと称するニーナ嬢をつれて、日本へ渡ることになったのだ。
ここまでいえば、誰にも分るだろうが、彼ターネフ首領こそ、派遣される国では、まことにゆだんのならない人物なのである。同伴のニーナ嬢についても、また語るべき別の話があるが、とにかく美しき彼女も、ただ者ではない。それは、ことさらここにことわるまでもあるまい。
あぶない、あぶない。このようなおそるべき人物が、虫一つ殺さぬ顔をして、ぞくぞくと日本へのりこんでくるのであった。彼らはこれから一体、なにを始めようとするのであろうか。まことに気味のわるい話である。
雷洋丸の遭難によって、船内におこったかずかずの怪事件は、疑問をのこして、一時あずかりとなった。
房枝は、幸いにボートにのりこむことができた。そして救助にのりつけた汽船のうえにうつされ、ぶじ横浜に上陸することができた。
ターネフとニーナは、いつの間にか、自国の汽船にすくいあげられ、これもぶじに、横浜上陸となった。
帆村探偵は、どうしたであろうか。彼は、最後まで、船にふみとどまっていたため、雷洋丸が、艫《とも》を真上にして沈没したのちは、海中へなげだされ、暗い海を、板切《いたきれ》にすがって漂流をはじめた。
漂流《ひょうりゅう》
帆村は、しっかと、板切につかまって、波のまにまに、どこまでも、漂流していった。
海上はたいへん、なぎわたって、波浪《はろう》も高からず、わりあいしのぎよかったのは、帆村にまだ運のあったせいであろう。
彼は、命よりも大事な例の箱を、しっかり背中に、ななめに背おっていた。
海は、いつまでも暗かった。まるで、時刻が、この海ばかりを、忘れ去ったかのように思われた。
帆村は、だんだん疲《つかれ》を感じてきた。そしてついには、うとうとと眠気《ねむけ》をもよおしてきた。
(これは、たいへん、うっかり眠ろうものなら、お陀仏《だぶつ》になってしまうぞ!)
と思ったので、彼は、船にいるとき、とくべつに、服のうえから腹にまきつけてきた帯をとき、命とすがる板切のわれ目に帯をとおして、しっかりと結び、他の端を、われとわが左手首にしばりつけ、ざぶりと波に洗われることがあっても、からだと板切とは、決して放れないように、用意をしたのであった。
この用意があったおかげで、彼は、いくたびか、眠りこけて、ざぶりと海中に、からだをしずませることはあったが、そのたびに、はッと気がつき、帯をたよりに、命の板切のうえにとりつくことができた。
長い夜が、ようやく暁《あかつき》の微光《びこう》に白みそめた。風が出はじめて、海上に霧はうごき、波はようやく高い。今夜あたり、一あれ来そうな模様である。帆村探偵には、あらたな心配のたねができた。
夜が明けてみると、昨夜中、命をあずけてとりついていた板切というのが、船具《ふなぐ》の上にかぶせておく屋根だったことがわかった。
帆村は、時間とともに、だんだんとおくまでのびていく視界のひろがりに元気づきながら、どこかに行きすがりの船影《せんえい》でもないかと、やすみなく首を左右前後にまわした。
すると、目についたものがある。一|艘《そう》の小さい和船《わせん》であった。誰か、そのうえに乗っているのが、わかってきたので、帆村は、ただよう板切、船具おおいのうえによじのぼり、手を口のところへ、メガホンのようにあてがって、おーいおーいとよんだ。
そのこえが、相手に、きこえたのであろう。やがて、朝霧の中から、ぽんぽんという発動機の音がして、その和船が帆村の方へやってきた。
「おーい、こっちだ。その船に、のせてくださーい」
和船は、いったん帆村の方に、一直線に近づくと見えたが、そばまで来ると、急に、針路をかえた。
「おーい、たのむ。のせてくださーい」
和船は、逃げるわけでもなく、用心ぶかく、帆村のまわりをぐるぐるまわりだした。
帆村は、しきりに手をあげて、和船をのがすまいと、呼んでいるうちに、彼は船のうえにのっている人物をみて、「おや、あれは、トラ十のようだが」と首をひねった。
しばらくすると、それは帆村の思ったとおり、トラ十にちがいないことがわかった。トラ十は、ついに船を帆村のところへ持ってきたのである。
「なアんだ、お前は曾呂利本馬《そろりほんま》じゃねえか」
と、トラ十は、けげんな顔で、船のうえから、帆村を見下ろした。
「そうだ、曾呂利だ。こんなところで、仲間にあおうとは思いがけなかった。おねがいだ。その船にのせてくれよ」
と、帆村は、たのみこんだ。トラ十は、まだ幸《さいわ》いにも、帆村の身分を知らず、ミマツ曲馬団の曾呂利青年と思っているらしい。
「ふん、助けてくれか。そうだな、お前なら、助けないわけにもいくまい。しかし、ことわっとくが、この船じゃ、おれは船長なんだぞ。万事おれさまの命令に従うなら、むかし仲間だったよしみに、ちっとばかりのせてやらあ」
トラ十は、もったいぶっていった。
怪《あや》しい紙切《かみきれ》
「やあ、ありがとう。トラ十兄い、恩にきるぜ」と、帆村がいえば、
「ふん、お前までが、トラ十トラ十といいやがる。これからは丁野船長《ていのせんちょう》とよべ。そういわなきゃ、おれはお前に、船から下りてもらうぜ」
「いや、わるかった。船長、どうか一つたのむ。たすけてくれ」
「ふん、じゃあ、のれ」
トラ十に、いばりかえられながら、帆村探偵は、やっと和船のうえの人となった。
「曾呂利よ。お前は、よっぽど運がいい若者だ」
と、トラ十はエンジンのところにすわりこんで、ひやかすようにいった。
「トラ十、いや丁野船長。お前、よくまあ、こんなりっぱな船を手に入れたもんだなあ。いったいどこで、手に入れたんだい」
帆村探偵は、服のしずくをおとしながら、そういうと、
「な、なんだって」
と、トラ十は、急にこわい目つきになり、
「そ、そんなことは、お前らの知ったことか。よけいな口をきくな」
と、帆村を叱《しか》りつけた。
それからしばらく、二人はだまりこんでしまった。
帆村が、じっとみていると、トラ十は、霧の中の海を、また北にむけて舵《かじ》をとっているのであった。それは、朝日の位置からして、方角がちゃんとわかった。
そのトラ十は、ときどき、霧の中をとおして、日の光を仰ぎつつ、胃袋のあたりを、ジャケツのうえからおさえるのであった。なにか彼は気にしていることがあるらしい。
「おい、曾呂利よ」
「へーい」
「へーい」というへんじが、トラ十の気に入った。
「お前、艫《とも》の方をむいて船がとおらないかみていてくれ。おれが、よしというまで、こっちを向いちゃならねえぞ。いいか」
「へーい。しょうちしました」
帆村探偵は、いいつけられたとおり、艫の方を向いた。
トラ十は、それをみるより、にわかにそわそわしだした。彼は、細長い腕を、ジャケツの中にさしこんだ。やがて手にとりだしたのは、くしゃくしゃになった青い封筒であった。
それは、師父《しふ》ターネフからうばった、重要書類|入《いり》の袋であった。
トラ十は、帆村の方を注意ぶかく睨《にら》んだ。
「やい、やい、やい。いいつけたとおり、艫の方へまっ直《すぐ》に向いていねえか。こっちを向いたら面《つら》を叩《たた》きわるぞ」
「へーい」
なにをいわれても、帆村は、へーいであった。トラ十はそこでやっと安心のていで、片手をつかって青い封筒をやぶった。中には、数枚の紙切がはいっていた。トラ十は、しきりにその中をのぞきこんでいたが、
(おやッ!)という表情。
取出した紙切を、一枚一枚あらためてみたが、それは、ことごとく白紙《はくし》であった。なんにも書いてなかった。白紙の重要書類というのがあるであろうか。
「ちえ、うまうま、きゃつのため、一ぱいくわされたか!」
トラ十は、くやしさのあまり、つい、ことばに出していった。
「どうしました、船長さん」
帆村は、うしろをふりかえった。
トラ十は、封筒と白紙とを重ねて、べりべりッと破った。そして、海中へなげこもうとしたが、急に気がかわって、破ったやつを、ふたたびジャケツの下におしこんだ。そのトラ十は、帆村に、なぜこっちを向いたのかと、叱りつけはしなかった。
「うーん、あの野郎……」
トラ十は、よほどくやしいとみえ、ひとりで獣《けもの》のようにうなっている。
帆村は、実は、さっきから、トラ十のすることを、すっかり見
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