ものをいうことなんて、あるであろうか。
 ほんとうの蜘味なら、そんなことはできない。しかし、もしもその蜘蛛が、作り物の蜘蛛であって、その蜘蛛の中に、小さな高声器《こうせいき》と、そして小さなマイクとが入っていたとすると、本人は遠くにいながら、その蜘蛛のいる附近の話ごえを、盗みぎきすることもできるであろうし、また、遠くから、その蜘蛛の体の中にある高声器を通じて、こえを送ることもできるであろう。
 だから、団長と房枝のそばに下っていた幕のうしろに下っていた蜘蛛は、そのようなたくみなぬすみ聞きをする高声装置ではなかったか。そして、天井から下っている蜘蛛の糸とみたのは、高声電流を通ずる電線ではなかったか。だから、蜘蛛そのものは、死んだ機械器具であって、このようなすぐれた装置をつかっている人間こそ、あやしい人物であった。しかし、ざんねんなことには、その人物は、だいぶん遠くにいるために、どのような顔をした人間だかはっきりわからなかった。と、ここでは、そのへんにとどめておく。

   面会のしらせ

 きょう午後十時に、興行をしまったら、黒川と房枝は、しめしあわせて、東京丸ノ内のネオン・ビルの前へ急行することに、二人の打合せができた。
(むこうに待っているのは、何者かはしらないが、あったうえで、よく話をして、ミマツ曲馬団の上に、この上ひどい危難をかけないようにしてもらおう)
 と、これは新黒川団長の決心だった。
「おい房枝、あんまりしおれていると、他の団員にあやしまれて、あのことが外へ知れてしまうぞ。すると、とたんに、どかーんだから、わしはいやだよ。ここはひとつ元気を出して、興行中は、あの花籠事件のことを忘れていておくれ。おい、房枝」
「はい、団長さん。あたし、大丈夫よ」
 そういって房枝は、けなげにも、顔をあげて、むりにほほえんだ。
 すると、ちょうどこのとき、団員の女の子が、かけこんできた。
「あら、房枝さん。こんなところにいたの。ずいぶんさがしたわ。おや団長さんもここにいらしったの」
「どうしたの、スミ枝さん」
「なんじゃ、スミ枝。えらく、はあはあいっているじゃないか」
 するとスミ枝は、とんとんと自分の胸をたたいて、
「だって、方々、さがしたんですもの。まさか、こんな道具置場にかくれているとはしらなかったんですもの、ああくるしかった」
「スミ枝、用事のことを早くいえ。わしは、こうなると何でもかでも、気になってしようがない」と、団長がうながせば、スミ枝は、
「あのう、御面会なのよ、房枝さんに」
「なんじゃ、面会じゃ。面会なんて、もう、どしどしことわることにしなさい」
「どんな人なの、スミ枝さん」
 と、房枝は、ふと心の中に描いた人があったので、スミ枝にたずねた。
「上品な奥様なのよ」
「上品な奥様? ああ、すると、あの方じゃないかしら。そしてスミ枝さん、大花環のことをなんとかおっしゃってなかった」
「ああ、大花環のことね。そういってらしたわ。まあ、あんないいところへ、あげていただいて、といって、その奥様あんたのところへ来た大花環を、ほれぼれと見上げていたわ。房枝さん、いい御ひいきさんあって、しあわせね」
「あら、そうでもないわ」
「なあんだ、そうか。あの大花環を房枝へ贈ってくだすった奥様か。そういう御面会の方なら、おい房枝、お前お目にかかって、よくお礼を申せ」
「ええ」
 房枝は、はじめから、あの奥様ではないかと思っていたのだ。スミ枝の話で、それはまちがいなく、その方だとわかった。房枝は、はじめすぐにも、とんでいって、お目にかかりたいと思った。三十分前までの自分だったら、すぐとんでいったろう。しかし今の房枝は、なんだか気がすすまなかった。
(自分は、暗い運命の女だ。今もこうして、バラオバラコという怪人物から、脅迫《きょうはく》をうけている身だ。今夜から、自分は、またどんな暗い道をたどらなければならないか知れないのだ。そういう呪《のろ》われた身の上の女が、あのような上品な奥様におつきあいすることは、奥様をけがし、そして奥様に、まんいち危難をかけるようなことがあってはたいへんである。これは、おことわりするのがいいのではないか。すくなくとも、今夜呼び出しの事件が、すっかり片づいてしまうまでは)
 房枝は、そんな風に思って、スミ枝、団長黒川が早く面会させようとすすめるのにかかわらず、へんじをにごしたのであった。
「あたし、お目にかからないわ。熱があって寝ています。舞台へは、やっとむりをして出ていますと、奥様にいってくれない」
「あら、そんなうそをいうの、あたしいやだわ」
「おい房枝、なにをいっているのだ。にせ病気なんかつかわないで、お目にかかったらいいじゃないか」
「でも、でも団長さん!」と、房枝は、黒川の方に深刻なまなざしをむけた。
 黒川は、房枝の目をみてうなずいた。
(そうか、そうか。あの一件のことを苦にやんでいるのか。むりもない)
 団長は、房枝が、今夜の呼び出し事件のことでおびえており、だれにもあいたくないんだろうと察した。
「おいスミ枝、房枝のいうとおりにしなさい」
「え、ことわってしまうんですか。あら、おかしいわね。御祝儀《ごしゅうぎ》がいただけるのに、房枝さんは慾がないわねえ」
「こら、なにをいう。スミ枝、早くそういってくるんだ」
 と、団長が叱りつけたので、スミ枝はあわてて、そこを出ていった。
「団長さん、あたし、もうこの仕事を、やめたくなりましたわ」
「なにをいうんだ。気のよわい。このミマツ曲馬団は」
 などと、黒川が歴史などをもち出して、房枝をはげましていると、そこへまたスミ枝がかけこんできた。
「あ、房枝さん。たいへん、たいへん」
「まあ、どうしたの、スミ枝さん。たいへんだなんて」
「だって、たいへんよ。あの奥様に、あんたが病気で楽屋で寝ていると、あたし、いわれたとおりいったのよ。すると、あの奥様はそれはたいへん、そういうことなら、ぜひお見舞いしないでいられません、楽屋はどっちでしょうかとおっしゃるのよ。あたし困っちゃったわ。あんた、ちょっとあってあげてよ」
「あら、困ったわねえ」
「こらスミ枝、お前のいい方がわるいから、そんなことになったんだぞ」
「いいえ、その奥様が、とても、房枝さんに熱心なんですよ。あたしでなくても、だれでも、負けてしまうわ」
 そういっているとき、幕のむこうで婦人のこえがした。
 するとスミ枝は、いよいよあわてて、
「ほら来たじゃないの。あんた、おねがいだから、楽屋へいってふとんを出して寝ていてよ。あたし困ることがあるのよ」
 といって、スミ枝は泣きだしそうな顔で、房枝の耳に口をあてると、
「房ちゃん、これ秘密だけれど、実はあたし、いただいてしまったのよ。あんたがあってくれないと、あたし、あの奥様に、せっかくいただいたおあしを返してしまわなければならないんですもの。ちょいと察《さっ》してよ」
 と、つげて、房枝にあってくれるように頼みこんだ。
 そのように、種あかしをされてみると、情《なさけ》にあつい房枝は、スミ枝の立場を考えてやらないではいられなかった。そこで、とうとう彦田博士夫人道子にあう決心をしたのだった。

   見えない糸

 楽屋は、一時、大さわぎとなった。
 ふとんをしく、くすりびんをのせた盆をならべる、手拭《てぬぐい》をしぼる。楽屋が、舞台みたいになってしまった。そして房枝は、そこに病人らしく横になった。
「房ちゃん、すまないわねえ」
 スミ枝が、枕もとへきて、小さいこえで気の毒がった。
「いいのよオ、心配しなくっても」
 房枝は、スミ枝をなぐさめた。房枝としても、道子夫人に、道子夫人が何者であるかは、まだ知らないが、あいたかったのであった。夫人に、めいわくをかけるのをおそれて、面会をことわってもらったのである。だから、スミ枝の行きすぎのためとはいえ、こうして、夫人にあえることになって、うれしくないことはない。
「まあ、あなた」
 道子夫人は、こえをうるませて、房枝の枕もとにきた。
「房枝さん、おくるしいのですか。どこがおわるいのです」
 房枝は、道子夫人に見つめられて、まぶしくてならなかった。
「いいえ、たいしたことはございませんの。それよりも奥様、りっぱなお花環《はなわ》をいただきましておそれ入りました」
「なんの、あれほどのことを、ごあいさつでかえっておそれ入りますわ。でも、もうお目にかかれないかと思って悲しんでおりましたのに、昨日、ちょうどこの曲馬団の前を通りかかりまして、房枝さんのお姿をちらりと見たものでございますから、そのときは、とび立つように、うれしくておなつかしくて」
 と、道子夫人は、そっとハンケチを目にあてた。
 楽屋のかげから、これをすき見している団員たちは、だまっていなかった。
「おいおい、第一場は、いきなりお涙ちょうだいとおいでなすったね」
「だまっていろ。お二人さま、どっちもしんけんだ。こうやってみていると、あれは、まるで親子がめぐり会った場面みたいだな」
「ほう、そういえば、房枝とあの奥様とは、どこか似ているじゃないか。似ているどころじゃない、そっくり瓜《うり》二つだよ」
「まさかね。お前のいうことは、大げさでいけないよ」
 二人の話は、なかなかつきなかった。
 房枝は、道子夫人に、あずかっていた草履《ぞうり》の片っ方をかえした。夫人は、たいへん恐縮《きょうしゅく》していたが、結局よろこんで、それをもらいうけた。そしてその代りにと、夫人は風呂敷のなかから、寄せぎれ細工の手箱をとりだし、
(これは手製ですが、房枝さんの身のまわりのものでもいれてください)
 という意味のことをいった。房枝は、よろこんでそれをもらった。
「房枝さん、じつは、まだ、いろいろお話をいたしたいこともございますけれど、御病気にさわるといけませんから、今日はこれでしつれいさせていただきますわ。そのかわり、また伺《うかが》ってもようございますわね」
 と、道子夫人は、房枝に約束をもとめるようにいった。
 房枝は、そのへんじをするのがたいへんくるしかった。
「いいえ、こんな場所は、奥様などのたびたびおいでになるところではございません。また、どんなまちがいがあるかもしれませんし、もうどうか、けっしておはこびになりませんように」
 房枝は、血を吐《は》く思いでそれをいった。今夜の呼出し事件がなかったら、この日房枝は、道子夫人の膝にとりすがって、思うぞんぶん泣いてみたくてしかたがなかった。それはなぜだか、理由のところは房枝にもよくわからなかったが。しかし、もうそんなねがいは夢となった。あくまで冷酷にせまってくる現実とたたかわねばならないのだ。夫人を慕《した》えばこそ、今は夫人にふたたびいらっしゃらないようにと、いわなければならなかった。そう強くいって、房枝はかろうじて、わっと泣きたいのをこらえていた。
「まあ、それは、なぜでございましょう。こうして伺っていますと、なにか房枝さんの身の上に」
「いえ、奥様」と、房枝は、おしかぶせるようにいって、
「なんでもないのでございます。ただ、どこでも、こういうところはよくないところでございますの」
「わかりました、房枝さん。もうわたくしは、なんにも申さないで失礼いたしますわ。どうぞ、早くおなおりになるよう、わたくしは、毎日毎日お祈りしていますわ」
 道子夫人は、ふかい思いをのこして楽屋を立ち出でた。
 夫人の姿が見えなくなると、房枝は、さすがにたまりかね、ふとんをかたく抱いて、わっとこえを立てて泣きだした。しばらくは、団長がいっても、スミ枝がいっても、よせつけなかった。
 道子夫人は、房枝の情のこもった草履の片っ方を抱いて、家路についたが、家にもどると、そのまま電話のところへいって、廻転盤《ダイヤル》をまわした。
「ああ、帆村先生の事務所でいらっしゃいますか。こちらは、彦田の家内でございますが」
 夫人はどうしたわけか、いそいで帆村探偵を呼出した。
「ああ、帆村先生でいらっしゃいますか.あのう、じつは折入って至急おねがいいたしたいことが
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