》いた。
 だれかが寝台のうえから、ハーモニカをふきはじめた、調子はずれのばかにしたような、間のぬけたふき方であった。
 トラ十は、目をぎろりと光らせて、その方へ、ぐっと太いくびをねじった。
「ハーモニカを、やめろ! 胃袋に、ひびが入らあ」

   曾呂利青年《そろりせいねん》

 房枝が、三等食堂へ、いきつくかいきつかないうちに、がらんがらんと、食事のしらせが、こっちの船室まで、きこえた。
 トランプをしていた者は、トランプを毛布《もうふ》のうえにたたきつけ、古雑誌を読んでいたものは折目をつけてページをとじ、いずれも寝台からいそいでとび下り、食堂の方へ走って行った。団員の娘たちは、あとで、いたずらをされないように、編物《あみもの》の毛糸を、そっと毛布の下にかくしていくことを忘れなかった。
 一番あとから、この部屋を出ていった顔の青い若者があった。彼は、すこぶる長身であったが、松葉杖《まつばづえ》をついていた。右足が、またのあたりから足首まで、板片をあて、繃帯《ほうたい》で、ぐるぐると、太くまいてあった。
「曾呂利本馬《そろりほんま》さん。手を貸してあげましょうか」
 通路で、房枝が向こうから駈《か》けてきて、その足のわるい青年に、こえをかけた。曾呂利本馬という妙な名が、その青年の芸名《げいめい》だった。
「なあに、大丈夫」
 と、曾呂利青年は、うなずき、
「ねえ、房ちゃん、いつもいうとおり、僕なんかにかまわないがいい」
 そういって、彼は、あぶなっかしい足どりで、食堂の入口をまたいだのだった。
 この気の毒な曾呂利青年を、房枝がなにかと世話をしてやると、そのたびに、トラ十が、目をむいて、口ぎたなく叱《しか》りつけた。
(おい房公。お前、手を出すな。その曾呂利本馬てえ野郎は、正式の団員じゃないぞ。メキシコのどぶ川の中で、あっぷあっぷしていた奴を、おせっかいの団長が、えりくびとって引上げてやったのさ。それからこっち、いつの間にやら、ミマツ曲馬団のすみっこで、こそこそうごめいている奴さ。とんちきな芸名までもらいやがって、歯のない牝馬《めうま》のうえにのっかったと思うと、もうあれ、あのとおり、自分の足を、ひんまげてしまった。ざまあみろというんだ。正式の団員でもない野郎の世話なんかすると、このおれさまが、だまっちゃいないぞ!)
 と、今日も、朝っぱらから、トラ十は、船室で、ほえたてていた。
 たしかに正式の団員ではなかったが、この気の毒な曾呂利に、房枝は、同情をよせていた。そばで、トラ十の雑言《ぞうげん》をきいている房枝の方が、腹が立って、しらずしらず顔が青くなるほどだった。
 曾呂利が、一つ男らしく立って、口先だけでも、トラ十をがーんとやりかえすといいと思うのだったが、曾呂利本馬は、いつも無口で、小学一年生のように、えんりょぶかく、よわよわしい性格のように見え一度もやりかえしたことはなかった。
 房枝は、ふんがいのあまり、こっそりと、本馬にいうときがあった。
(ねえ、曾呂利さん。あたしには、あんたがどうしても、弱虫に見えないの。男なら、なぜ一つ、思いきり、きびしく、いってやらないの。あんた、わざと、強いのをかくしているんじゃない?)
 と、ませた口で、年上の青年をなじると、曾呂利青年は首をふって、
(いやいや、僕は、だめですよ。悪口をいわれても、仕方のない人間なんです。ほうっておいてください)と、目を伏《ふ》せていう。
(そう。ほんとうに、力なしの、弱虫なの、じゃあ、あたしが、これから加勢してあげるわ)
(いやいや、めっそうもない。房ちゃんは、僕なんかに、かまわないがいい)
 そういって、曾呂利青年は、足がわるいのに、一番高い上段の寝台へのぼり、もう息をひきとりそうな老犬のように、小さくなって、寝てしまうのだった。
 夕暮の空の下では、房枝は、一時、両親を恋うるセンチメンタルな可憐《かれん》な少女にかわるが、ふだんは、すさまじい世渡りにきたえられて、十五歳の少女とは見えないほど、きびきびした少女だった。
 房枝は、松葉杖をついた曾呂利のあとから、三等食堂の中へ入っていった。
 ひろい食堂は、電灯も明るく、食慾のさかんな三等船客が、もう一ぱい、つめかけていた。皿やナイフの音が、かしましくするだけで、だれも、むだ口をきく者がなく、一生けんめいに皿の中のものを、胃袋へつめこんでいた。
 トラ十も、さかんにぱくついているので、曾呂利青年や房枝の入ってきたのも知らぬげであった。
「おい、ソースだ、ソースだ。ソースのびんがないぞ」
 トラ十が、たくましいこえで、どなった。
「ソースのびんは、目の前にあるじゃないか」
 ようやく、食事はだいぶん進んだらしく口をきく客もでてきた。
「目の前? うそをつけ。目の前には、ソースのびんなんかないぞ」
 ト
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