、これから満足な興行《こうぎょう》ができないであろう。やがて、一座は解散となって、団員たちは、ばらばらになってしまうにきまっている。ああ、そんなことになれば、房枝のような孤児《こじ》を、だれが面倒みてくれるであろうか。団長が見つかったという知らせに、房枝が、ほっと安心の吐息《といき》をもらしたのも、わけのあることだった。
「あ、曾呂利さん」
曾呂利の方をふりかえった房枝は、いぶかしそうに、彼にこえをかけた。
曾呂利本馬は、足がわるく、おまけに、ニーナ嬢につきあたられて、後頭部をいやというほどうったので、ふらふらの病人であるはずのところ、彼が、足もともしっかり、すっくと立ち上っていたのを見て、房枝は、たいへんふしぎに思ったのである。
「曾呂利さん。もうおなおりになったの」
「いや、あいかわらず痛むのですけれど、今、団長が見つかったときいたものだから、おどろいて、思わず立ち上がったんですよ」と、彼は、いいわけしながら苦笑した。
「いやな曾呂利さんね。そんならんぼうなことをなさると、いつまでも丈夫になれないわ。ねえ、ドクトルさん」
ドクトルは、看護婦相手に、船員赤石の容体を見守っていたが、
「そうですよ。若い人は、どうもらんぼうをするので、いかんですよ。いくら丈夫でも、人間の体力には、かぎりがある。それをふみこすと、体をこわしてしまう。曾呂利さん、房枝さんのいうのが、ほんとうだ」
曾呂利は、肘かけ椅子に腰をおろし、たいへんよわった顔で、あたまをかいた。
そこへ、また電話がかかってきた。看護婦が出ると、こんどは、船長のとこへかかってきたのではない。船長から船医のところへ、かかってきたのである。
「あ、ドクトルだね、たいへんだ。すぐ来てくれたまえ。場所は、第一石炭庫。見つけだした松ヶ谷団長は、顔にひどい怪我《けが》をしている。そして、なんだか[#「なんだか」は底本では「なんだが」]、様子がへんだ。妙なことを口走っている。うごかせそうもないから、すぐに来てくれたまえ」
と、船長のこえは、うわずっていた。
船医は、薬や注射器をもってすぐかけつけると返事をした。そして、看護婦をいそがせて、自分は鞄をもち、看護婦には、洗滌器《せんじょうき》などの道具をもたせて、あたふたと、医務室を出ていった。
あとには、赤石と曾呂利と房枝の三人きりとなってしまった。
そのとき房枝も、そわそわしていたが、団長の様子が気になるとみえ、彼女もまたそこを出ていった。あとには、赤石と曾呂利の二人きりとなった。
船員赤石は、死んだようになって、ベッドに寝ている。眼をあいているのは、曾呂利一人だった。
その曾呂利青年は、しばらくあたりの様子をうかがっていたが、誰も近づく者がないのを見すますと、肘かけ椅子から、すっくと立ち上った。彼の右足は、膝のうえから下を、板切《いたきれ》ではさみ、そのうえに、繃帯《ほうたい》でぐるぐるとまいていて、いかにも痛そうであったが、ふしぎにも、このとき、彼は、室内をすたすたと歩きだしたのであった。そして手をのばして、赤石の倒れていたという疑問の花をつかむと、部屋の片隅にある顕微鏡の前にいった。もしもこのとき、誰かが、この曾呂利青年のあやしい行動を見つけた者があったとしたら、きっと、部屋にとびこんで、このにせ怪我人の曾呂利を、やにわにとりおさえたことであろう。
彼は、爆薬で黒くよごれた花片《はなびら》をむしりとると、器用な手つきで、それを顕微鏡にかけて、のぞきこんだのであった。
数秒間、彼は、石像のようになって、顕微鏡をのぞいていたが、やがて顔をあげると、
「おお、これはたしかに、今大問題になっているBB火薬だ! これはたいへんだぞ」と、思わず、口走《くちばし》った。
いよいよ怪しき曾呂利青年だ。
今や、曾呂利青年の正体は、読者の前に、明らかにされなければならない。曾呂利本馬とは、真赤ないつわり、彼こそは、理学士の肩書のある青年探偵、帆村荘六その人だったのである。
おお、あの有名な名探偵、帆村荘六。
彼はなぜか一芸人として、このミマツ曲馬団に加わっていたが、雷洋丸上にしきりに起る怪事件にだまって見ていられず、ひそかに探偵の歩をすすめていたのだった。
そういうことが分かれば、曾呂利本馬として、これまでにたびたびおかしな振舞《ふるまい》があったが、それは探偵のための行動であったのだ。
BB火薬《かやく》
曾呂利本馬は、もう解消して、名探偵帆村荘六は、顕微鏡からはなれた。
彼は、きりりとした顔で、またしばらく、あたりの様子をうかがっていたが、まだ誰も、この医務室に近づく者がないことをたしかめると、後へふりむいて、卓子《テーブル》のうえから、一本の試験管をとった。
なにをするのであろうか?
帆村探偵は、
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