着て、食堂へ入っていったり、またAデッキの籐椅子《とういす》にもたれて、しきりに口をうごかしているのが、とくに船客の目をひいた。
ニーナ嬢は、一人旅ではなかった。伯父《おじ》さんだという師父《しふ》ターネフと、二人づれの船旅であった。
師父ターネフは、もちろん宣教師《せんきょうし》で、いつも裾《すそ》をひきずるような長い黒服を着、首にまいたカラーは、普通の人とはあべこべに、うしろで合わせていた。いかにも行いすました宗教家らしく、ただ血色《けっしょく》のいい丸顔や、分別くさくはげかかった後頭部などを見ると、たいへん元気にみえ、なんだか、その首を連隊長か旅団長ぐらいの軍服のうえにすげかえても、決しておかしくはないだろうと思われた。
そのニーナ嬢が、階段のところで、曾呂利本馬と、鉢合《はちあわ》せをした。
ニーナ嬢は、うすぐらい階段を、急いで上からおりて来る。曾呂利は、松葉杖《まつばづえ》をついて、階段を四、五段のぼっていた。ニーナ嬢が、勢よくというより、少しあわて気味に足早におりて来たため、あっという間に、二人は下にころげおちた。
からだが不自由な曾呂利は、後頭部《こうとうぶ》を床にうちつけて、しばらくは、気がとおくなっていた。
ニーナ嬢の方は、すぐさま起き上った。そして、いまいましいという表情で、たおれている曾呂利を、靴の先で蹴とばしておいて、そのまま行きすぎようとした。が、そのとき、彼女は、何おもったのか、また戻ってきて、さっきとは別人のようなふるまいで、曾呂利を抱きおこした。
「うーん」
曾呂利が、彼女の腕の中で、うなりごえをあげた。
ニーナ嬢は、ハンケチをだして、曾呂利の額《ひたい》をふいてやった。そして、
「ごめんなさい。ごめんなさい。わたくし、たいへん、あやまりました」
「……?」
曾呂利は、ちょっとうす目をあけたが、またすぐ目をつぶった。
「ごめんなさい。わたくし、あやまりました。おわびのため、このお金、さしあげます」
ニーナ嬢は、どこに持っていたのか、紙幣《さつ》を一枚、曾呂利の手に握らせ、
「どうか、ごめんください。そして、わたくしのため、このことは、誰にもいわない、よろしいですか。きっと、きっと、誰にもいわない。わたくしと、ここで衝突したこといわない。あなたいいません! いわないこと、約束してくれますか。それを守ってくれるなら、あとでまた、お礼のお金をさしあげます」
ニーナ嬢は、ねっしんに、そして早口で、曾呂利をかきくどいた。
曾呂利は、かすかにうなずいた。
「よろしいですね。わたくし、あなたを信用します。お礼のお金、あとできっとさしあげます。あっ!」
ニーナ嬢は、とつぜん、おどろきのこえをあげた。階段の上に、誰かのわめきごえがきこえたからである。
「約束、きっと、守るのです!」
ニーナ嬢は、最後にもう一度、命令するかのように、曾呂利の耳にのこすと、曾呂利をそこに寝かしたまま、とぶように立ち去ったのであった。
階段の上から、あらあらしい足音とともに、二、三人の船員がおりてきた。
「やっぱり、こっちじゃないかな」
「どうも、こう暗くては、探せやしない」
船員たちは、おりてくると、そこに曾呂利がたおれているのを発見して、おどろいてかけより、
「おう、あなた。ここへ誰か来なかったでしょうか。この階段を、あわてて上からおりてきたものはありませんか」
曾呂利をだき起そうともせずに、いきなり質問だ。
曾呂利は、首をふって、
「誰も、見えませんでしたね。僕は、松葉杖を階段からつきはずして、落ちたんです」
と、わりあい、しっかりしたこえでいった。曾呂利は、ニーナとの約束を守ったのである。というよりも、うそをついたのである。彼は、ニーナ嬢から握らされた紙幣に、良心を売ったのであろうか。
疑問《ぎもん》の空襲《くうしゅう》
曾呂利が、医務室につれこまれるところを、ちょうどそこを通りかかった房枝が、見かけた。
「まあ、曾呂利さん。足のわるいのに、ひとりで出かけたりするから、また、どうかしたんだわ」と、つづいて、彼女も、曾呂利のあとから、医務室に入った。
曾呂利は、診察用の肘《ひじ》かけ椅子に、腰をかけさせられていた。
船医が、すぐやってきて、曾呂利が痛みを訴《うった》える後頭部をかんたんに診察した。
「なあに、大したことはありませんよ。湿布《しっぷ》してあげましょう」
船医は、看護婦を呼んで、湿布のことを命じているとき、入口の扉をあけて、船長が入ってきた。
「やあ、ドクトル。赤石《あかいし》は、その後、どうです」
赤石とは、れいの爆発事件のとき、甲板でたおれた船員の名だ。
「やあ、船長。赤石君は、奥に寝かせてあるが、もうすこし様子を見ないと、なんともいえませんねえ」
「うむ、
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