ちました。まだ始めての誕生日もこない娘は、私の乳が出ないために、昼も夜も私のそばで泣きつづけてやせていきますの。ついに主人と私とは死を決心しました。しかし娘は死なせたくない。なんとか助かるものなら人のおなさけにすがっても、助けてやりたいと思い、心を鬼にして、ある露地《ろじ》に棄ててしまったのです」
「まあ」
「しかし、私たちは、すぐそれがまちがっていたと気がつきました。そこで、息せききって、娘を棄てた露地へ引返したのですが、そのときはもうおそかったのです。ほんの十分か十五分しかたちませんのに、娘の姿はもう見当りません。私たちは、必死になって娘をさがしまわりました。いいえ、今もなお、私たちはあらゆる手をつくして、娘をさがしつづけているのです、しかしわが子を棄てた罪を、神様はまだお許し下さらないものと見え、娘は未だに私たちのもとへ帰ってこないのです」
 夫人は、ハンケチを目にあて、肩をふるわせて忍び泣くのであった。
「まあ、なんてお気の毒なお話しでしょう」
 じっと聞いていた房枝は、その話が、他人事とは思えなかった。彼女の身の上にも、それと同じような話がある。房枝は、父母の顔も名もしらない淋しい孤子《みなしご》であった。こうして道子夫人の話を聞いていると、なんだか彼女自身が、道子夫人のさがしている棄てられた愛児のように思えてくるのだった。房枝の胸は、早鐘《はやがね》のようになりだした。
「ねえ、奥様。お棄てになったそのお嬢さまの名は、なんとおっしゃいますの」
 ついに房枝は、思わずそうたずねてしまった。

   光明《こうみょう》

(お棄てになったお嬢さまの名は、なんとおっしゃいますの?)
 夫人が、なんと答えるであろうか。もしも(その名は、房枝といいますのよ)といわれたら、房枝はどうしようかと、胸がわくわくした。多分彼女は、喜びにたえきれなくて、その場に卒倒《そっとう》するかもしれないと思った。
「娘の名でございますか。それは」
 と、夫人は口ごもりながら、房枝の顔を穴のあくほど見つめた。
「あのう、娘の名は、小雪と申しますの」
「小雪? 小雪ですか。それにまちがいありませんの」
 房枝は失望のあまり、わっと泣きだしたいのを一生けんめい唇をかみしめてこらえていた。
「ええ、小雪ですの。人様の手に渡っても、一旦私たちがつけてやった名前は、ぜひ名のらせたいと思い、メリンスの袷《あわせ》の裏に、娘の名を赤い糸で縫いとっておきました。房枝さん、もしや、あなたの本名は小雪とおっしゃるのではありませんの」
 夫人の声は、ふるえる。
「いいえ、とんでもない、あたくしの名は、小さいときからただ一つ、房枝なんですわ」
「まあ、でも」
「あたくしは、生れてからずっと曲馬団《きょくばだん》の娘なんですわ。どうして、奥様のようないい方を、母親にもてるものですか。ごめんあそばせ」
 房枝は、その場にいたたまらなくなって、スミ枝たちにはかまわず、一散に外へ走りだしたのであった。
 何もしらないトラックの運転手は、いよいよ帰るのだと思って、運転台へとびのった。そのうちに慰問隊の少女たちは、ぞろぞろと工場の中から出てきた。ただ一人スミ枝だけが、なかなか出てこなかったが、しばらくして、ようよう道子夫人と一緒に出て来た。スミ枝が最後に車上の人になると、トラックはうごきだした。房枝は、うずくまって、手で顔をおおったままついに頭をあげなかった。
 賑《にぎ》やかな拍手をもって花の慰問隊を送る工場の人々に交って、道子夫人の顔だけが、ひとり憂《うれい》にとざされていた。
 慰問隊は、一旦日比谷に引揚げ、そして夕方の六時近くになって、めでたく解散した。
 房枝は、スミ枝をさそってそばやに入った。そしておそばを二つとったが、房枝はついに箸《はし》をつけず、スミ枝の方へ押してやった。
 そこを出ると、房枝は、わざわざ暗い裏町をえらぶようにして、ただ黙々としてあるきつづけるのであった。困ったのは、そばについて、一緒にあるかされているスミ枝だった。何を話しかけても、いつになく強情に、房枝はへんじ一つしなかった。
「ねえ、房枝さん。あんた、いじわるね。あたしにあいたいとか、かゆいとかぐらいへんじをしても、ばちがあたりゃしないでしょう」
 スミ枝は、とうとう怒り出した。それでも房枝は、頑《がん》としてへんじをしなかった。これにはスミ枝も、全く手をやいてしまったが、ふと思い出して、
「そうそう、房枝さん。あのいい奥様が、あたしかえろう[#「あたしかえろう」はママ]とすると、それを引止めて、こんなことをいったわよ。あの、いつだか、あの奥様があんたにくれたあの手箱ね、あの手箱に張ってあるメリンスのきれがあるでしょう。あのメリンスのきれに、あんたがおぼえがないか、きいてほしいといってたわよ。
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