た。午前中は工場の増産能率を害するというので、このように午後の出勤と決められていたのである。
今日の花の大慰問が終れば、これで当分一段落となる。房枝の体も、明日からはあくことになるので、さてそのあとは、どんなことをして暮そうかと、そのようなことが、はや気がかりになった。ニーナは、いつまでも、房枝の生活の面倒を見てくれるつもりかもしれないけれど、そういつまでも厄介になるわけにはいかない。
房枝は、またベッドのところへ戻ってきて、そのうえに腰をおろした。スミ枝は、まだねむっている、すうすうと気もちよさそうないびきまでかいて。
房枝は、手をのばして、枕許《まくらもと》においてあった手箱を手にとった。
よせぎれ細工の手箱であった。これは、房枝の大好きな彦田博士の夫人道子から贈られたものであった。そしてミマツ曲馬団大爆破のとき、二、三百|米《メートル》先の工場の中へとびこんでいたのをこのスミ枝が取りかえしてきてくれたのであった。
房枝は、その手箱を胸のうえに、そっと抱きしめた。
「ああ、そののち奥様にもずいぶんながくお目にかからないような気がしますわ。あたしの大好きな奥様は、おたっしゃでいらっしゃるでしょうか。このまえは、奥様のお身の上をお案じ申すあまり、『どうかもうお帰りになってくださいまし、そして、もう二度とこんなところへは、おはこびになりませんように』と、そのような失礼なことを申し上げました。お怒りになりましたかしら。お怒りになっては、房枝は悲しゅうございますわ。あたくしは、奥様とお別れするのは、どんなにかつらいことでございました。でもあたくしは、そうしなければならなかったんでございます。なぜと申しまして、あたしたちミマツ曲馬団の者は、たえず、あやしい者に狙われていました。ですから、そのそば杖《づえ》が、万一奥様のお身にあたるようなことがあれば、あたくしは、どんなにか心ぐるしいのでございます。あたくしの手足が千切《ちぎ》れることよりも、奥様の一本のお指から赤い血がふきだすことの方がよっぼど悲しいのでございます。ああ奥様、房枝は、大好きな奥様にお目にかかれなくてさびしいのでございますけれど、こうして、じっとこらえております。ただ奥様の御安泰《ごあんたい》をのみ、おいのりいたしております」
房枝は、道子夫人の手になる手箱に、そっと頬ずりをして、
「でもここに、奥様のあついお情のこもった手箱がございますので、房枝は、どんなにか、なぐさめられているのでございますわ。奥様は、手芸《しゅげい》にも御堪能《ごたんのう》なのですわねえ。ああ、おそばに毎日おいていただいて、奥様から手芸をおしえていただくことが出来たら、房枝はどんなに幸福でしょう。ああ、だめです、そんなこと。房枝がミマツ曲馬団の生き残り者である間は、どこからかおそろしい悪魔が、今にもとびかかってきそうな姿勢で、こっちをにらんでいるのです。そういう禍《わざわい》をもって、どうしてあたくしが、奥様のおそばへまいれましょう」
房枝は、いつになく、感傷な少女になりきってなげくのであった。
「あーら、房枝さん。泣いたりして、どうしたのよう」
ねむっていると思っていたスミ枝が、むっくり頭をあげて房枝によびかけた。
「あら、スミ枝さん。あたし、泣いてなんかいないわよ」
「あんなことをいっているわ。ああ、よくねちゃった。ここは天国みたいね」
スミ枝は、ベッドから飛び下りた。そして部屋の隅の洗面器の前に立って、鏡に顔をうつして、あかんべえをやった。
「そうそう、房枝さん。その手箱ね。一|個所《かしょ》だけ、よせぎれの色がかわっているんだけど、あの爆発で、色がかわってしまったのかしら」
ふしぎなことを、スミ枝がいい出した。
「あら、そんなことがあるかしら。スミ枝さん、それはどこなの」
「ちょっと、ここへ持ってきてごらんなさい」
スミ枝は、ピンを口にくわえて、髪を解《ほど》きながらいう。
「ほーら、ここよ。ここのところだけ、色がちがうでしょう」
「ああ、ここね。これは昔の安いメリンスの古ぎれね。ほかのところのよせぎれが、ちりめん[#「ちりめん」に傍点]だの、紬《つむぎ》だの、黄八丈《きはちじょう》だののりっぱなきれで、ここだけがメリンスなのねえ。でも、これは爆発で色がかわったのではなくて、もともと、これはこんな色なのよ」
「そうかしら、でも、へんね」
「なぜ」
「でも、へんじゃないの。そこのところだけ、安っぽいメリンスのきれを使ってあるなんて、どうもへんだわよ。きれが足りなかったんだとは、思われないわ」
スミ枝が、無遠慮に、いいはなつところを聞いていると、なるほど、へんでないこともなかった。房枝は、その色がわりの安いメリンスのきれに、じっと目をおとしていたが、
「あら」と、とつぜん
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