って、入れかわりに、サイダーのようにうまい朝の外の空気が入ってきた。
「ああ、房枝さん。あなた、おつかれでしょうねえ」
 ニーナ嬢が、いつの間にか階段を下りて、房枝の横に立っていた。房枝は、外に見えるうつくしい花壇《かだん》にながめ入っていたので、ニーナの近づいたのを知らなかった。
 房枝は、しみじみと礼をいった。黒川は、熱は高いが、幸いにも今ぐっすりと、ねこんでいるのだった。
「ああ、そう」
 と、ニーナはうなずいて、
「じゃあ、あの花壇のあるところへいってみません? いろいろとうつくしい花や、香《かおり》のいい花が、たくさんあるのです。あなた、花おきらいですか」
「いいえ、花はだいすきですの」
「ああそう。では、これからいって、あなたの好きな花を剪《き》ってあげましょう。あなた、どんな花、好《この》みますか」
「さあ、好きな花は、たくさんございますわ」
 房枝は、黒川がよくねむっているのに安心して、ニーナ嬢とつれだち、花壇へ下りた。全くすばらしい花園だ。小学校の運動場ほどの大きさのなだらかな斜面が、芝生と花でうずめられているのだった。朝陽《あさひ》をあびて花は赤、青、黄、紫の色とりどりのうつくしさで、いたいほど目にしみた。そしてえもいわれぬ香が、そこら中にただよい、まるで天国へ来たような気がするのであった。
「まあ、うつくしい」
 房枝は、徹夜の看護に充血《じゅうけつ》した目を、まぶしそうにしばたたきながらいった。
「ここにある花の種類は、七百種ぐらいあります」
「え、七百種。ずいぶん、種類が多いのですわねえ」
「その中に、メキシコにあって、日本にない花が、三百種ぐらいもまじっています。なかなか苦心して持ってきました」
「そういえば、あたくしがメキシコでお馴染《なじみ》になった花、名前はなんというのかしりませんけれど、その花があそこに咲いていますわ」
「じゃあ、あれをさしあげましょう」
「いいえ、花はあのままにしておいた方がいいんですの。きっていただかない方がいいわ」
 と、房枝は、上気した頬を左右にふって、辞退した。
「えんりょなさらないでよ」
「いいえ、その方がいいのです」
 と、房枝はニーナの好意を謝《しゃ》したが、そのとき気がついて、
「あーら、このいい香は、なんでしょ。あら、バラの匂《におい》だわ。まあ、これは大したバラ畠ですわね」
 房枝は、とつぜん目の前にひらけた一面のバラの園《その》に、気をうばわれた。
 ところがニーナは、そのすばらしいバラの園を、なぜか自慢しなかった。そして、房枝の腕をとると、前へ押しやるようにして、そのところを通りぬけた。
 房枝は、ニーナの心を、はかりかねた。
「ニーナさんは、バラの花が、おきらい」
「えっ」
 と、ニーナは、妙《みょう》に口ごもり、そしてあわてて首をふった。
「わたくし、きらいではありませんけれど、好きでもありません」
 と、わけのわからないことをいった。
 そのとき、房枝のあたまに、ふと浮かんだことがあった。それは何であったろうか。
 外でもない。バラオバラコという怪しい名前のことだ、あの脅迫状に託《たく》してあった。

   朝刊におどろく

 バラオバラコ?
 これを、房枝は、こじつけかもしれないが、次のように、あたまの中で書きなおしてみた。
 バラ雄《オ》バラ子!
 そしてこのニーナの邸には、すばらしいバラの花園があるのだった。しかもニーナは、そこを通るとき、いやな顔をした。すると何だか、バラ雄バラ子というのが、わけがありそうにもおもわれないこともない。
(でも、まさか、あたしたちは、あの脅迫状を書いた人のとこへ来ているのではないでしょうに。あのとき、ネオン・ビルで、あたしたちを待ちかまえていたのは、トラ十だったんですもの。だとすると、バラオバラコというのは、トラ十の変名だということになるけれども……)
 妙なことから、房枝はきゅうに里ごころがついた。
「あのう、ニーナさん。しばらく黒川さんのことを、おねがいしますわ」
「ええ、いいです。しかし、どうかしましたか」
「いいえ、べつにどうもしませんけれど、あたし、ちょっと曲馬団へかえってきますわ。ゆうべから、団長とあたしが団の方へかえってこないので、皆が心配しているでしょうから」
「ああ、そうですか。あのう、それ、もっとあとになさいませ。食事の用意できたころです。一しょに食事して、それからになさい」
「でも、皆が心配しているといけませんから」
「まあ、待ってください。とにかく、食堂へいってみましょう。あたくし、十分ごちそう、用意させました。メキシコから来たよいバタあります。チーズ、おいしいです」
 ニーナは、しきりに房枝をとめるのだった。
 房枝は、それまで黒川の重傷を心配するあまり、曲馬団の仲間のことを、すっ
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