をいった。房枝は、よろこんでそれをもらった。
「房枝さん、じつは、まだ、いろいろお話をいたしたいこともございますけれど、御病気にさわるといけませんから、今日はこれでしつれいさせていただきますわ。そのかわり、また伺《うかが》ってもようございますわね」
 と、道子夫人は、房枝に約束をもとめるようにいった。
 房枝は、そのへんじをするのがたいへんくるしかった。
「いいえ、こんな場所は、奥様などのたびたびおいでになるところではございません。また、どんなまちがいがあるかもしれませんし、もうどうか、けっしておはこびになりませんように」
 房枝は、血を吐《は》く思いでそれをいった。今夜の呼出し事件がなかったら、この日房枝は、道子夫人の膝にとりすがって、思うぞんぶん泣いてみたくてしかたがなかった。それはなぜだか、理由のところは房枝にもよくわからなかったが。しかし、もうそんなねがいは夢となった。あくまで冷酷にせまってくる現実とたたかわねばならないのだ。夫人を慕《した》えばこそ、今は夫人にふたたびいらっしゃらないようにと、いわなければならなかった。そう強くいって、房枝はかろうじて、わっと泣きたいのをこらえていた。
「まあ、それは、なぜでございましょう。こうして伺っていますと、なにか房枝さんの身の上に」
「いえ、奥様」と、房枝は、おしかぶせるようにいって、
「なんでもないのでございます。ただ、どこでも、こういうところはよくないところでございますの」
「わかりました、房枝さん。もうわたくしは、なんにも申さないで失礼いたしますわ。どうぞ、早くおなおりになるよう、わたくしは、毎日毎日お祈りしていますわ」
 道子夫人は、ふかい思いをのこして楽屋を立ち出でた。
 夫人の姿が見えなくなると、房枝は、さすがにたまりかね、ふとんをかたく抱いて、わっとこえを立てて泣きだした。しばらくは、団長がいっても、スミ枝がいっても、よせつけなかった。
 道子夫人は、房枝の情のこもった草履の片っ方を抱いて、家路についたが、家にもどると、そのまま電話のところへいって、廻転盤《ダイヤル》をまわした。
「ああ、帆村先生の事務所でいらっしゃいますか。こちらは、彦田の家内でございますが」
 夫人はどうしたわけか、いそいで帆村探偵を呼出した。
「ああ、帆村先生でいらっしゃいますか.あのう、じつは折入って至急おねがいいたしたいことがございますの。はあ、大至急でございます。いえ、会社のことではなく、わたくしごとでございますが、いつやら、ちょっとお話しました娘さんのところへ、ただ今、いっておりましたのですが、今日はどういうものか、娘さんのようすがへんなのでございます、なにか、あの娘さんの身の上に、危難があるように感じましたの。道々考えてまいりましたんですが、たいへん気になって、しようがございません。それで、相談にのっていただきたいのでございますが、すぐ宅まで」
 縁《えにし》は、目に見えないが、常に行いのうえにあらわれる。夫人は、何ごとも知らずに、房枝あやうしと感じて、帆村探偵の力をもとめたのであった。

   ネオン・ビル前

 その夜のことだった。
 東京駅の大時計は、すでに午後十一時一、二分、まわっていた。
 そのとき、あたふたと、改札口から駅前へとびだしてきた二人の男女があった。
「やあ、おそくなったぞ。一電車おくれてしまったので、これはもう十一時をすぎてしまった。ねえ房枝、大丈夫だろうか」
「そうねえ」
 その話でわかるように、男は、新興《しんこう》ミマツ曲馬団の新団長黒川であり、また女は、花形《はながた》の房枝であった。
 この二人は、例の脅迫状の差出人たる謎の人物バラオバラコによび出されて、やってきたのであるが、一、二分はおくれたが、ともかくも、今東京駅についたのであった。
 二人は、口の中で、ネオン・ビルと、しきりにくりかえしていた。ネオン・ビルは、バラオバラコからいって来た会見の場所であった。もしそこへ来なかったら、せっかく大人気をとっている新興ミマツ曲馬団の小屋を爆破するというのだった。そんなことがあれば、小屋がこわれるばかりではなく、おおぜいの観客が怪我をするであろうし、かけがえのないすぐれた芸をもっている団員もまたたおれてしまうであろう。そんなことになってはたいへんである。これから怪人物バラオバラコに会って、ぜひとも、そんなことをしないように、たのむほかない。
 二人は、駅前からビル街の間に、はいっていった。
 夜のビル街! なんというさびしい街であろうか。
 昼間であると、このあたりは、まるで行列《ぎょうれつ》が通っているのかと思うくらい、にぎやかな、そしていそがしそうな人通りがあった。八階も九階もある、大きな城のようなビルが、一つや二つではなく、どこからどこまで、幾十幾
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