みた。そして、その次に、あのうつくしい大きい花籠を、卓子《テーブル》のうえに、さがしたのだった。
どうしたわけか、花籠は、卓子のうえから消えていた。房枝は、おやと、思った。
そのまま、だれも花籠のことをいいださなかったなら、房枝も、やがてきっと、その大きな花籠のことを、わすれてしまったことであろう。ところが、ひきつづいて、とんでもないさわぎが、まき起ったのだ。
大音響《だいおんきょう》
「おう、いやだ、いやだ。これは血じゃないかな」
とつぜん、ひとりの男が席からとびあがった。それは、同じ曲馬一団の黒川という調馬師《ちょうばし》だった。
彼が、指をさししめす卓子《テーブル》のうえには、どうも人の血らしいものが、たくさん地図のような形に、白布《しろぬの》をそめていた。そして、なおもその附近には、手の形らしい血痕《けっこん》が、いくつも、べたべたと白布《はくふ》のうえについていた。そこは、ちょうど、あのうつくしい花籠がおいてあった前あたりであった。
「おお、これは血にちがいない。ぷーんと、あのにおいがするぜ」
「ほんとだ。だれの血だろう」どやどやと席をたって集ってきた三等船客や、船のボーイたちは、とつぜんふってわいたような怪事件の席をかこんで、くちぐちにさわぎたてた。
「どうも、へんだ」例の黒川という最初の発見者が、きょろきょろと、あたりを見廻した。
「おい、トラ十。トラ十は、どこへいった」彼は、なおもきょろきょろと、あたりを見廻したのだった。
「おい、トラ十が、どうしたんだ」仲間の一人が、黒川の肩をたたいた。
「なぜって、お前、トラ十が、急にいなくなったんだ。室内の電灯が、消えるまでは、ちゃんと、おれの横に腰をかけていたんだがなあ。どうも、へんだ」
「トラ十のことなんか、どうでも、いいじゃないか」黒川は、つよく、かぶりをふって、
「いや、どうでもよくないことはない。なぜってお前、あの血は、トラ十が坐っていた席に流れているんだぜ」
「えっ、あの席には、トラ十が坐っていたのか。そいつはたいへんだ! 早く、それをいえばよかったんだ」
さわぎは、ますます大きくなっていった。そのさわぎをすぐ知らせたものがあったと見えて、事務長が、かけつけた。
事務長も、黒川の話をきいて、おどろいた。そして、すぐさま、トラ十こと丁野十助のありかを、手わけして、探させたのであった。
電灯が消えてから、まだ、ものの二十分ぐらいしかたたないのに、トラ十は、どこへいったか行方がわからなかった。
「まさかと思うんですけれどねえ。事務長さん」と、黒川は、いった。
「まさか、どうしたというんですか」
事務長は、太った体を、黒川の方にむけた。
「つまり、まさか、トラ十は、だれかに殺されたんじゃないでしょうか。そして、殺した犯人は、暗闇を幸い、死体をひっかついで、海の中へ放りこむなんか、したんじゃありませんかね」
「ほう、探偵小説《たんていしょうせつ》には、よく、そんな筋のものがありますがねえ」
と、事務長は、まじめくさって、そんなことをいった後で、
「まさか、ねえ」と、反対の意をあらわして、黒川の顔を見たのだった。
「でも」と、黒川は、なおも疑いの色を眉のあいだにうかべ、「それから、もう一つへんなことがあるんですぜ、さっき、トラ十の前にあった美しいりっぱな花籠が、どこへいったか、一しょに、卓子《テーブル》のうえから見えなくなった!」
ほうと、おどろきのこえがまわりの人々の口から出た。黒川の指さした消えた花籠のことを、彼らも思いだしたからであろう。
房枝も、もちろん、人垣の間から、一生けんめいに、黒川たちの話に、きき耳を立てていた。
「なんだ、ばかばかしい」と事務長は、笑いだした。
「じゃあ、その丁野十助さんが、花籠を抱えて、どっかへ出かけたんじゃありませんかね。たとえば、水をさすためだとか、あるいは、どこかへ持っていって、飾《かざ》るために」
「じゃあ、なぜ、そこに、人の血が流れて、のこっているのですか。わしには、わけがわからない」
黒川は、ますます疑いにとじこめられつつ、恐怖の色をうかべた。
房枝も、黒川と同じように、トラ十の身のうえに、一種の不安を感じないではいられなかった。
彼女は、自分のすぐ横に、足のわるい曾呂利青年が、これもねっしんに、きき耳をたてているのを発見して、これに話しかけた。
「曾呂利さん。お聞きになって。トラ十が、どうかしたんじゃないんでしょうか」
「さあ」と、曾呂利は、興味ありげに、首をかしげたが、「だれか、怪しい者が、まじっているようですね。さっきも、マッチをつけたとき、すぐ、マッチを消せと、叱りつけた者がありましたよ。しかも、警戒警報だから、明りを消しなさいと、この部屋の高声器が叫ぶよりも、まだ前のことなんで
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