洋丸から、命からがらのがれた後のしめっぽい思出なんか、どこかに忘れてしまって、たいへんな張切りぶりを見せた。もう二、三箇月、東京各地で稼いだら、その次には一座そろって上海《シャンハイ》へ渡ろうと、黒川団長は、そんな先のことまでを口にした。
ちょうど、七日目の昼間興行のとき、房枝が、アパートを出て、楽屋入《がくやいり》をすると、黒川新団長が、にこにこ顔でそばへよってきた。
「おい、房枝。今日、お前のところへ、すばらしく大きな花環の贈物がとどいたよ。天幕の正面の柱に高くあげておいたよ」
「まあ、ほんとう? だれからかしら」
房枝は、大花環と聞いて、目をみはった。
「さあ、その贈主のことだが『一婦人より』としてあるだけで、名前はない」
「一婦人より、ですって。だれなんでしょうね」
「まあ、その幕の間から、ちょっとのぞいてごらん。実にすばらしい花環だ」
団長は、自分がその花環をもらったようによろこぶのであった。そこで房枝は、顔があかくなったが、団長にすすめられるままに、幕に手をかけてそっと覗《のぞ》いた。
「あーら、ほんとうね。まあ、きれいだこと」
房枝は、思わずおどろきのこえをあげた。
「どうだ、りっぱなものだろうがな。わしはちかごろ、あんな見事な大花環を見たことがない。房枝、お前は、今はおしもおされもせぬ一座の大花形だよ」
「だれが、贈ってくださったのでしょうね」
と、房枝は、小首をかしげたが、そのとき、ふと気がついて、
「ああひょっとしたら、部屋においてあるあの片っ方の草履《ぞうり》の奥さまがおくってくださったのではないかしら。でもまさか」
と、房枝は、自問自答をして、再びその花環へ、まぶしい視線を送ったが、そのとき、房枝は、とつぜん、「あっ」と、大きな叫びごえをあげておそろしそうに身をひいた。
「どうした、房枝。いきなり、そんな大きなこえを出して」
房枝は、そのとき、新団長の腕を、しっかととらえて、こえをふるわせた。
「ちょっと、あれを、あたしの大花環の横にならんで、気味のわるい花籠が」
「ええっ、気味のわるい花籠が?」
怪しき花籠《はなかご》
「気味のわるい花籠? あの花籠なら、たいへんきれいじゃないか」
と、黒川新団長は、房枝のことばを、むしろふしんに思っているようすだった。
房枝は、恐怖の色をうかべ、
「いいえ、あの花籠には、あたし見おぼえがあるのよ。あの雷洋丸事件の、そもそもはじまりは、あの花籠だったのよ」
「ええ、なんだって」
雷洋丸事件ときいて、黒川新団長は急に顔色をかえた。黒川はあのとき、トラ十の横に腰を下していたのだった。あのとき、電灯が一度消えて[#「一度消えて」は底本では「二度消えて」]、二度目についたときには、トラ十のすがたはなく、卓上は鮮血《せんけつ》でそまっていた。それから間もなく、雷洋丸は爆沈し、彼はもう少しで、命を失うところだったのだ。雷洋丸事件ということばをきくと、黒川は今でも、すぐ身ぶるいがはじまる。
「団長さん。あの事件のとき、あたしたちの食卓に、あのとおりの花籠がのっていたのよ。そして、一度停電して、二度目に電灯がついたときには、その花籠はなくなっていたのよ。そして、卓上には、あのおそろしい血が」
「ああ、それから先は、もういうな。わしは、それを思うと、身ぶるいが出るのだ」
「あたしは、あの花籠を見たとたんに、身ぶるいがおこりましたわ。あんな気味のわるい花籠は、すぐ下してくださらない。あたし、芸もなにも、できなくなりましたわ」
「まあ、そういうな。しかし、わしも、やっと思い出したぞ。そうだ。たしかあのとき、わしの目の前に、あのような花籠がおいてあったねえ」
「団長さん。あの花籠は、一たい、どなたが贈ってくださったのですか」
「ああ、あの花籠か。あれは、だれから贈られたのだったかなあ。そうそう、なにしろ大入満員でいそがしいものだから忘れていたが、さっき、お届物屋《とどけものや》さんが持ってきたといっていたが、そのとき手紙がついていたのを、読もうと思って、すっかり忘れていた」
「手紙がついていたんですか」
「そうなんじゃ、いそがしくて、すっかり忘れていたよ。あれは、どこへしまったかなあ」
黒川は、ポケットをさがしまわっていたが、やがてまっ白い角封筒を、ズボンのポケットからつまみだした。
「ああ、あったよ。これだ、この封筒だ。中の手紙を読めば、だれが贈ってくれたかわかるよ」
そういって、黒川は、その四角な封筒をやぶって、中から四つにたたんだ用箋《ようせん》をひっぱりだした。そして、それをひろげてみると、なんとそこには、電報のように、片かなばかりをつかった文章が、タイプライターで印刷してあった。
その文面は、次のようなものであった。
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