い。あたくし、そのへんのお家で、錐をお借りして、鼻緒をすげてまいりますわ」
と、道子夫人にいってかけだした。
道子夫人は、それをとめたが、房枝は、どんどんかけだして、一軒の家へとびこんだのであった。
夫人は、房枝のあとを見送って、呆然《ぼうぜん》とその場に立っていた。
すると、そのとき、向こうから一台の自動車が、警笛《けいてき》を鳴らしながらやって来たので、夫人はまたかとおどろき、いそいで道の傍《かたわら》にさけた。そこはちょうど両側が沼になっていて、さけるのにはたいへん不便なところだった。
自動車は、急にとまった。
「おや、彦田博士の奥さんじゃありませんか。そのお姿はどうなすったのです。さあ、私がお送りしましょう。どうぞこの車へおのり下さい」
夫人が、顔をあげてみると、それは、ちかごろしばしば博士邸へたずねてくる青年探偵の帆村荘六だった。
道子夫人は、車に乗ろうとはせず、てみじかに、ここで起った出来事をのべたのである。もちろん、房枝のこともいった。
「奥さん。それはそうでしょうけれど、早くこの車へお乗りになった方がいいですよ。第一、泥がお顔にまではねかかっていて、たいへんなことになっていますよ」
「あら、まあ。そうですか」
夫人は、あわてて顔をおさえた。
「さあさあお早く、こっちへお乗りください。それじゃみっともなくて、白昼歩けませんぞ。鼻緒の切れた草履なんか、どうでもいいじゃありませんか」
この帆村探偵は、少々らんぼうなことをいう。夫人は、見知らぬ少女の好意を無にして、ここを去るのは気が進まなかった。が帆村は、一切そんなことをおかまいなしに、とうとう、夫人を引張りあげるようにして車にのせると、運転手にいそがせて、そのまま大森にある博士邸へ、車を走らせたのであった。
花環《はなわ》と花籠《はなかご》
極東薬品工業前の空地に、蓆《むしろ》をつくって小屋がけして新興ミマツ曲馬団の更生興行は、意外にも、たいへんな人気をよんで、場内は毎日われるような盛況《せいきょう》であった。
団員は、だれもかれも、えびすさまのように、大にこにこであった。中でも、新団長の黒川のよろこびは、ひと通りではなかった。
「おい、お前たち二人でこれからすぐに、電灯会社へいってこい。夕方までに電灯をひいてもらって、今日から、夜間興行をやることにしよう。工事料は現金でもっていけ」
「はいはい。行ってきましょう」
なにしろ、道具もなければ、金もないので、小屋がけをしたはいいが、はじめは電灯を引くことも出来なかった。天井《てんじょう》なしの、天気のいい日だけ、昼間興行で打切りというすこぶる能率のわるいやり方で、がまんしなければならない新興ミマツ曲馬団だった。
だが、蓋《ふた》をあけると、どやどやとお客が押しよせてきて、たちまちしわだらけの札が、団長の帽子の中に一ぱいになってしまった。
二日目には、客からお届けものの栗まんじゅうの入っていたボールの箱を、臨時金庫にしたが、たちまちこの箱も、札で一ぱいになって、箱はとうとうこわれてしまうというさわぎであった。そこで、仕方なくそばやさんから、乾《ほし》うどんの入っていた木箱をゆずってもらって、これを三代目の金庫としたが、この金庫も、三日目には、札で、すっかり底が浅くなってしまい、うっかり持ちあげると、板底から釘がぬけだすというわけで、夢みたいに金が集まってきた。こうなれば、電灯工事費なんかなんでもない。
房枝の出し物は、もともと小馬ポニーを使って、身軽な馬術をやるのが一座の呼びものになっていたが、そのポニーは、雷洋丸とともに、太平洋の底に沈んでしまった。だから、この出し物はだめとなって、初日、二日は、仕方なく、上は洋髪の頭のままで、からだには、紙でつくったかみしも[#「かみしも」に傍点]をつけ、博多今小蝶《はかたいまこちょう》と名乗って、水芸の太夫娘となって客の前に現れた。それでも、なにもしらない客たちは大よろこびで、小屋が割れそうなくらい手をたたいた。
房枝は、うすい板敷《いたじき》の舞台の上で、そっと涙をのんだ。
(ポニーほしい)
と思ったが、それは、どうにも、急場の間にあうはずがなかった。
「じゃあ一つ、空中サーカス道具を手に入れ、ついでに、天井の高い天幕《テント》も、借りちまうか、これなら、ごうせいな番組となって、お客は、またうんとふえるにちがいない」
と、楽屋の草原の上に、あぐらをかいている黒川新団長は、ものすごく気前がよかった。
五日目は、徹夜で、大天幕張り、次の日から、見ちがえるような新興ミマツ大曲馬団超満員御礼大興行と、長たらしい名前の旗を出し、「お礼のため、特に料金は二割引」とわけのわからぬ但し書をつけたが、これがまた大当りと来た。一座は、波間に沈んでいく雷
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