、どうかしたのかな」と、帆村は、首をひねった。
(が、そんなことはどうでもいい。あのわずかな隙を狙って、うまくトラ十をたたきのめしたのだ。そして、自分の命をとりとめ、それから、貴重なX塗料を)
 帆村はそこで、目を船内に転じて、きょろきょろとあたりを見まわした。
 船内には、X塗料を巻いてあった布や紙が、ちらばっていた。帆村は、その間を探しまわった。
「おや、どこへいったろう。X塗料の棒が見あたらないぞ」
 と叫んだが、ふと彼は、海中へ視線を走らせると、はっと気がついて、一瞬時に、顔面が蒼白《そうはく》となった。
「し、しまった。トラ十め、あれを手にもったまま、海中へ落ちた!」
 さあ、いよいよ一大事だ!

   無念《むねん》の報告

「そいつは、遺憾至極《いかんしごく》だなあ」
 黄島《きじま》長官は、ほんとうに、遺憾にたえないといった語調で、とんと、卓子《テーブル》のうえを拳でたたいた。
 ここは、検察庁の一室であった。
 長官の前に、重くしずんだ面持で立っているのは、別人にあらず、帆村荘六その人であった。
 帆村は、ついに一命をまっとうして、今日、東京についたばかりであった。彼は、とるものもとりあえず、重大な報告をするため、黄島長官のもとにかけつけたのだった。
「まことに、遺憾です。私は、長官に、面《おもて》をあわせる資格がありません」
「うむ、君の骨折《ほねおり》は感謝するが、せっかく、手に入れながら、失うとはのう」
 長官は、X塗料の棒のことを残念がっているのだった。
「おい、帆村君。残っているのは、今ここにあるこれだけか」
 長官は、卓子のうえに広げられた散薬《さんやく》の紙包ほどのものを指さす。その紙のうえには、なんだかくろずんだ粉が、ほんの少量、ほこりのようにのっていた。
「はい、これだけであります。これは、塗料の棒を包んであった油紙を、よく注意して、羽根箒《はねぼうき》ではき、やっとこれだけの粉を得たのです」
「実に、微量だなあ。これじゃ、分析もなにもできまい」
「はあ」
 帆村は、唇をかんで、頭をたれるより外に、こたえるすべをしらなかった。
「しかし、これでも無いよりはましだ。いたずらに、取り返しのつかぬことをなげくまい。そして、不利な現状の中から、男らしく立ち上るのだ」
 長官は、帆村のために、慰《なぐさ》めのことばをかけた。帆村はいよいよ穴
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