白蛇の死
海野十三

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)浅草寺《せんそうじ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一本|無雑作《むぞうさ》に
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 浅草寺《せんそうじ》の十二時の鐘の音を聞いたのはもう半時《はんとき》前の事、春の夜は闌《た》けて甘く悩《なやま》しく睡っていた。ただ一つ濃い闇を四角に仕切ってポカッと起きているのは、厚い煉瓦塀《れんがべい》をくりぬいた変電所の窓で、内部《なか》には瓦斯《ガス》タンクの群像のような油入《あぶらいり》変圧器が、ウウウーンと単調な音を立てていた。真白な大理石の配電盤がパイロット・ランプの赤や青の光を浮べて冷たく一列に並んでいた片隅には、一台の卓子《テーブル》がポツンと置かれて、その上に細い数字を書きこんだ送電日記表《そうでんにっきちょう》の大きな紙と、鉛筆が一本|無雑作《むぞうさ》に投げ出されていたが、然《しか》し当直技手の姿は何処にも見えなかった。
 今、全く人気《ひとけ》の無いこの大きい酒倉《さかぐら》のような変電所の中では、ただ機械だけが悪魔の心臓のように生きているのであった。
 スパーッ!
 リンリンリンリン。
 突然白け切った夜の静寂《せいじゃく》を破って、けたたましい音響が迸《ほとばし》る。毒々《どくどく》しい青緑色《せいりょくしょく》の稲妻《いなずま》が天井裏《てんじょううら》にまで飛びあがった。――電路遮断器《サーキット・ブレッカー》が働いて切断したのだった。
 と、思い掛けぬ窓のかげから素早く一人の男が飛び出して、配電盤の前へ駈けつけた。彼は慣れ切っている正確な手附きで、抵抗器の把手《ハンドル》をクルクルと廻すと、ガチャリと大きな音を立てて再び電路遮断器《サーキット・ブレッカー》を入れた。パイロット・ランプが青から赤に変色して、ぱたりとベルが鳴止《なりや》む。その儘《まま》技手は配電盤の前に突っ立って、がっしりした体を真直《まっす》ぐに、見えぬ何物かを追っているようであった。もう四十年輩の技術には熟練しきった様な男である。――一分、二分。春の夜は闌けて、甘く悩しく睡っていた。
「土岐《とき》さん! 土岐さん、一寸《ちょっと》……」
 不意に裏口へつづく狭い扉《ドア》が少し開いて、その間から若い男の顔がヒョクリと現われた。ひどく蒼白い顔をして、明らかに何事か狼狽《ろうばい》しながら四辺《あたり》を憚《はばか》っていた。
「おう」くるりと振返った技手は、
「国ちゃんか、なんだい?」と、何気《なにげ》なく配電盤を離れた。
「あの、一寸来てくれませんか、何《ど》うも可笑《おか》しいんです。お由《よし》が仆《たお》れちゃって」
 青年は一途《いちず》に救いを求めるような、混乱した表情を見せなから、乾《ひ》からびた言葉をぐっと呑みこんだ。
「お由――」
「ええ、仆れちゃったきり、どうしても起きないんです。困ってしまってね」
 土岐|健助《けんすけ》は濃い眉を寄せてチラリと窓の方を眺めた。
「弱ったな、相棒《あいぼう》は起せないし――」
「ええ?」
「喜多公《きたこう》なんだよ。考えものだからね」
 さっと青年の眼は怯《おび》えあがった。
「ま、この儘にして置いて一寸行って見よう。何処だい?」
 技手は思い返した様に、気軽に青年の肩を押しながら裏口へ出た。乏しい軒灯《けんとう》がぽつんぽつんと闇に包まれている狭い露路《ろじ》を、忍ぶように押黙って二十歩ばかり行くと、
「土岐さん、此処《ここ》!」と、青年は立止って道を指した。
 顔を地につけるようにして見ると、仰向《あおむ》きになった、銀杏《ぎんなん》のようなお由の円い顔が直ぐ目についた。頸《くび》から、はだけた胸のあたりまで、日頃自慢にしていた「白蛇《しろへび》」のような肌が、夜眼にもくっきりと浮いている。のけぞっているので、髷《まげ》は頭の下に圧しつぶされ、赤い手絡《てがら》が耳朶《みみたぶ》のうしろからはみ出していた。
「お由、お由!」
 青年は憚るように声を殺して呼びながら、強く女を揺ぶったが、ぐったりと身動きもしなかった。彼は前にも幾度かそうして見たのであったが、もう一度機械的に黒繻子《くろじゅす》の襟《えり》を引き開け、奇蹟にでも縋《すが》るようにぐっと胸へ手を差し入れた。直ぐにむっちりと弾力のある乳房が手に触れたが、その胸にはもう、彼を散々悩ましたあの灼《や》けつくような熱は無く、わずかに冷めて行くほの温味《あたたかみ》しか感じられなかった。心臓は?(ほら、こんなにね)と、よく彼の手を持って行っては、その強い躍動を示して笑った心臓も、パタリと止ってしまっている。
「ああ、心臓が止っている――」
「なに、心臓が!」
 ぼんやり中腰《ちゅうごし》になってお由の白い顔を眺めていた土岐健助は、初めて愕然《がくぜん》と声をあげた。そして、おずおずとお由の硬張《こわば》った腕を持ったが、勿論《もちろん》脈《みゃく》は切れていた。
「国ちゃん、一寸胸を開けて」
 青年が力一杯襟をはだけるのを待って、土岐は心持ち顔を赤らめながら、お由の乳房の下へぴたりと耳を押しつけて見た。少しの鼓動も無い。すぐに眼瞼《まぶた》をひらいて見たが、瞳孔《どうこう》はもう力なく開き切っていた。
「死んでいる。もう全く呼吸が無くなっているんだ」
「大変なことになったな――でも、どうして死んだんでしょう」
「どうしてって君、君は今までどうしていたんだい?」
 そう聞かれると、さすがに青年は此の年輩《ねんぱい》の技手に対して、赤い顔をした。が、何《いず》れにしても今の場合土岐の力を借りるより外、この気の弱い青年には縋るものが無かったので、前後も無く早口にこう話し出した。
 ――宵《よい》の灯《あかり》が点くと間もなく、お由は何時《いつ》もの通り裏梯子《うらばしご》から、山名国太郎《やまなくにたろう》が間借りをしている二階へ上って来たのであった。
「今夜はね、根岸《ねぎし》の里《さと》へ行って来るって胡魔化《ごまか》して来たのよ。私だって、たまにはゆっくり泊《とま》って見たいもの。――大丈夫よ。まさか親分だって、そんなに女房を疑っちゃ、お爺《じい》さんの癖に外聞が悪いもの。かまうもんか、知れたら知れた時の事さ」
 妖婦《ようふ》気取りのお由は、国太郎にぴったり寄添いながら非常に嬉しそうであった。そして散々この気の弱い青年をいじめぬいて、少しも側から離そうとはしなかったが、つい先刻《さっき》になって不図《ふと》気が変ってしまった。
「矢《や》っ張《ぱ》り私、帰った方が好《い》いわ。あんた怒りゃしないわね。又来るには泊らない方が出好いもの、ね」
「だってもう十二時過ぎだぜ」
「怖《こわ》かあないわ。こう見えたって白蛇のお由さんだもの。夜道なんか平気よ」
「じゃ、其処《そこ》まで送って行こう」
「無論だわよ」
 お由はまだ国太郎に絡《から》み纏《まつわ》りながら、裏梯子から表へ出た。が、塀を一つ曲って此処まで来ると、
「あら、私紙入れを置いて来ちゃった。ほら、先刻《さっき》帯を解いた時、一寸本箱の上へ置いたのよ。あんたが悪いんだから、いそいで取って来てよ」
 お由は国太郎の胸を肩で小突《こづ》いて、二人の時だけに見せる淫蕩《いんとう》な笑いを顔一杯に浮べていた。その濃艶《のうえん》な表情が、まだはっきりと国太郎の眼に残っているのに――
 すぐに紙入れを取って引返して来た時には、もうお由は此処に仆れていたのであった。
「初めは冗談だと思ったんですよ。けれど、様子が可怪《おか》しいんでしょう。だから驚いちゃって――」
「一体、君が此処へ帰って来るまで、詰《つま》りお由さんが一人で此処に残っていた時間は、どの位だったの」
「三分とは経っちゃいないんです」
「三分? そして君が帰って来た時、この露路に誰も人は見えなかった?」
「ええ。はっきり覚えてはいないけれど、たしか誰も見えませんでした」
 が、其時《そのとき》何故《なにゆえ》か変電所の四角な窓が、爛々《らんらん》と輝いていた事を青年は不図思い浮べた。
「困ったね、何方《どっち》にしても。どうする君は?」
 土岐の言葉に、急に自分の立場をはっきり思い起して、国太郎は忽《たちま》ち竦《すく》むように頭を抱《かかえ》てしまった。
「僕は、僕は殺されますよ。きっと、なぶり殺しにあわされるんだ!」
 それは何《な》んとも言えなかった。
 一体《いったい》お由は、今戸町《いまどまち》に店を持っている相当手広い牛肉店|加藤吉蔵《かとうきちぞう》の妾《めかけ》兼《けん》女房なのであった。が、悪い事にはこの吉蔵が博徒《ばくと》の親分で、昔「痩馬《やせうま》の吉《きち》」と名乗って売り出してから、今では「今戸の親分」で通る広い顔になっている。しかもお由はその吉蔵親分の恋女房であった。
 今から五年ばかり前、お由がまだ二十歳《はたち》で或る工場に働いていた頃、何処の工場でもそうであるが、夕方になるとボイラーから排出される多量な温湯が庭の隅の風呂桶《ふろおけ》へ引かれて、そこで職工達の一日の汗を流すことになっている。その鉄砲風呂の中から、お由の膚理《きめ》のこまやかな、何時もねっとりと濡れている様な色艶の美しい肌が、工場中の評判になってしまった。
「お由さんの体は、まるで白蛇のようね」
 その白蛇の様な肌を、何かの用で工場へ来合《きあわ》せた吉蔵が一目見て、四十男の恋の激しさ、お由に附纏《つきまと》う多くの若い男を見事撃退して、間も無く妾とも女房とも附かぬものにしてしまったのである。
 こうしてお由は娘から忽ち姐御《あねご》へと変り、あられもない「白蛇のお由」と自分から名乗って伝法《でんぽう》を見習うようになったが、若いに似ずよく親分の世話をして、執念深く窺《うかが》いよる男共は手痛い目にあわされるという評判が専《もっぱ》らであった。
 然し魔は何処に潜《ひそ》んでいるか計り知れぬ。それ程気の強いお由が、この正月頃から臆病《おくびょう》な大学生山名国太郎にすっかり魂を打ち込んでしまったのだから――。二人の甘い秘密は、幸《さいわ》い今日まで親分にも知れず、数々の歓楽《かんらく》を忍ばせて来たが、ここにもやっぱり悪魔は笑っていたのだ。若《も》しお由の死から国太郎との秘密が知れたが最後、深い中年者の恋の遺恨《いこん》で、どんな惨忍《ざんにん》な復讐《ふくしゅう》が加えられることであろう。
 生きた心地も無いこの哀れな青年を前にして、技手は全く途方にくれたようであったが、一方空っぽにして来た変電所の事も気になるらしく、咄嵯《とっさ》に何《ど》うにか、後始末の手段を考えてくれた。
「ね君、今は何うしてお由さんが死んだのか、誰に殺されたのかなんて事は研究している場合じゃ無いよ。何より君自身の体を心配する必要があるんだ。いいかね、後三十分で僕の交代時間が来る。そうしたら兎《と》に角《かく》二人でお由さんの屍体《したい》を遠くへ運んで行こう。詰まり君とお由さんとの仲を嗅ぎ出されない為にだよ。そして君は、朝の一番列車で当分何処かへ姿を隠してしまうのだ。それが一番安全だからね。――後三十分だ。君はこの屍体を守って、変電所の物置の後で待っていて呉れ給え。忘れても声を立てちゃ駄目だぜ。相捧は喜多公なんだからね」
 それは国太郎にとって非常に頼母《たのも》しく思われた程実に冷静な分別《ふんべつ》であった。ただ不安なのは技手の言う相棒の喜多公、即ち変電所の技手補|田中喜多一《たなかきたいち》で、これは吉蔵親分の一の乾分《こぶん》である上に、秘かにお由に想いを掛けているのだと、国太郎は何時かお由自身の口から聞かされた事もあるので、運悪くこうした所を見附かろうものなら、親分に告げるまでも無く半殺しの目にあわされるのは言うまでも無かった。
 然し、幸い薄氷《はくひょう》を踏む思いの長い三十分は、どうやら無事に過ぎたらしい。やがて足音を忍ぶようにして土岐健助が物置のかげへ来てくれたのは、もう午前二時を少し廻った頃であっ
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