た。
「じゃ、いいかい」
言葉少なに技手はこう言って、無雑作にお由の頭を抱きあげた。国太郎は夢中で足の方を持ったが、どっしりと重い死人の体は思ったより遥かに扱い難く、物の十|間《けん》と歩かぬ中《うち》にもう息切がして来た。そして揺《ゆす》りあげる度にしどけなく裾《すそ》が乱れて、お由好みの緋縮緬《ひぢりめん》がだらりと地へ垂れ下る。その度に彼等は立止って、そのむっちりと張切った白い太股《ふともも》のあたりを掻《か》き合《あわ》せてやらねばならなかった。
「これじゃ遣り切れ無い、両方から腕を担《かつ》いで見ようよ」
然し何《ど》うして見たところで硬張った死人を運ぶのは可成《かな》りの重荷であったが、他に工夫のしようもなかったのでその儘歩き続けた。この露路をぬけてドンドン橋を渡ると瓦斯会社の横に出る。それを真直ぐに、左手は深い小川をへだてて墓地、右手は石炭置場になっている暗い道を、何うにか大河畔《おおかわばた》まで忍んで行った。そこを左に折れて河添いに一丁ほど歩くと又左に折れて、間もなく百坪ばかりの空地《あきち》へ出る。空地の中央には何んとかいう小さな淫祠《ほこら》が祀《まつ》ってあるが、その後の闇の中へお由の屍体を下して、二人は初めてほっとした。
幸い途中で誰にも見られなかった事は、彼等にとって何よりであった。
「土岐さん、一寸土岐さん!」
大声で揺り起されて土岐健助が、宿直室の蒲団《ふとん》の中からスッポリと五分刈頭を出したのは、もう朝も大分日が高くなった頃であった。
「ヤア!」
土岐は其処に喜多公こと田中技手補が柔かいものをだらしなく着て、棒のように突っ立っているのを見出すと、渋い眼を無理に開けるようにして声を掛けた。然し喜多公の顔は緊張しきって蒼白《まっさお》だった。
「あの、今戸の姐御が殺されちゃってね。つい其処にむごたらしく殺《や》られているんでさ。あっしはこれから直ぐ今戸へ行かなけりゃならないんで、すみませんがあんた一つ、今日の当番をかわってくれませんか」
「へえッ!」
健助は瞬間どきりとしたが、その気持を隠さずに喜多公の顔を見詰めた。が、喜多公はそんな事に頓着《とんちゃく》なく、技手が当番の事を承諾すると、風の様に外へ飛び出して行った。
(むごたらしく殺られている)土岐は起きようともせずに、昨夜《ゆうべ》の生きている儘に死んでいたお由の美しい屍体を思い描いて、喜多公の残して行った言葉を不思議に思った。
「そんな筈はないんだがな」あのお由のあらわな白い胸や太股をまざまざと描き出して、土岐はふっと顔を赤らめた。
宿直室の外は火事場の様な人通りであった。
「まあ、いやだ。そりゃいい女だって言うけど、腕も脚も無いんですってさ」
「あら、何うしましょう。私見るのが怖くなっちゃったわ」
その声に土岐はがばと跳ね起きた。そして手早く洋服を着てしまうと裏口から飛び出して、群衆と一緒になって駈け出したのである。
平常《ふだん》はがらっとしているあの空地が、今朝はもう身動きも出来ない程の人だかりだった。土岐はまざまざと昨夜の屍体と向き合う事を恐れながら、それでも人を掻き分ける様にしてどんどん前へ出て行った。そして人々の隙から一目お由の屍体を見るなり、余りの事に彼は危《あやう》く声を立てる処であった。
思い掛けなくも両腕、両脚を無惨《むざん》にすぱりと切り取られたお由の屍体は、全く裸体にされて半分小川の中へ浸されているのだ。その白蛇の様な肌は朝日に蒼白く不気味な光を帯び、切口は無花果《いちじく》の実を割った時の如く毒々しい紅黒色《こうこくしょく》を呈していた。
(こんな筈は無い)土岐は余りの事に思わず顔を背けたが、不図、今頃は多分三十里も東京から離れてしまったあの気の弱い国太郎が、若しこれを見たら何んな事になったろうと思った。と同時に、彼は自分が昨夜犯した屍体|遺棄罪《いきざい》から、完全に救われた様な気軽さも覚えて、もう二度とお由の不気味な屍体を見る気はなく、其の儘|踵《きびす》を返したのであった。
だが、なんという奇怪な事件だろう。お由は露路に三分間ほど一人で立っている間に、何者にか巧妙な手段で、一つの傷も残さず殺害されていた。その屍体は土岐と国太郎の手に依って空地へ運ばれたが、翌朝になるとそれが一枚の布も纏わずに投出され、しかも何者にかその四肢を切断された上持去られている。考えように依っては、痴情《ちじょう》の怨《うら》みか何にかでお由を殺した最初の犯人が、なお飽き足らずに屍体を運ぶ二人の後を附け、其処で再び残忍な行為を犯したとも思えるし、或いは空地に棄てられた後お由は偶然に蘇生《そせい》して、通り合せた何者かに再びこの無惨な殺害をされたとも思えぬ事は無い。
兎に角、この白蛇のお由の不可解な謎の屍体は、忽《たちま》ち土地の警察は言うまでも無く、警視庁|強力犯係《ごうりきはんがかり》の大問題となって、時を移さず血眼の大捜索が開始された。お由の屍体は直ぐに大学病院に運ばれて解剖に附《ふ》されたが、其処からは何等犯罪的な死因は得られず、或いは一種の頓死《とんし》ではないかとさえ言われたが、屍体|損壊《そんかい》の点から見ても、矢張《やは》り他殺説の方が一般に主張された。
そこで屍体は一時亭主の吉蔵に下げ渡され、今戸の家へ親戚一同が集ってしめやかな通夜《つや》をする事になったが、其の席上で端なくも意外な喧嘩が始まってしまった。というのは、恋女房の棺《ひつぎ》の横に坐って始終腕組みをしていた吉蔵親分が、つと焼香に立った喜多公を見て、悲痛な言葉を浴びせたに始まる。
「喜多公、よく覚えて置けよ。殺された女の恨《うら》みは七生|祟《たた》るっていうからな」
「何んですねえ、親分。冗談じゃねえ」
「なに! 女房が殺されたってのに、冗談口を利く亭主が何処にある。てめえの為を思うから言ってやるんだ。後世《ごしょう》の事を思ったら、今の内に――」
「親分! 乙に絡んだものの言い方をしやすね」苦笑いをしていた喜多公は、そこまで言われるとキッとなって形を改めた。「冗談なら冗談でいいが、親分! それを本気でお言いなさるんなら黙っちゃいませんぜ。べら棒め、姐御の屍骸《しがい》が何を喋っているか知ってるなア、一人ばかりじゃねえ!」
「何んだと? てめえはそれじゃ、おれの恩を仇《あだ》で返《けえ》す気だな。よし、そんなら言って聞かせる事があらあ。一体、お由の屍骸を一番初めに見附けて来たなあ何処の何奴《どいつ》だ。あの晩、てめえは何処で何をしていやあがったんだ。お由の胸へ匕首《あいくち》を差し附けて……」
「親分、それじゃ姐御を殺したなあ、あっしだと言うのか!」
「胸に聞いたら判ることだ」
「何んだと!」
さっと茶呑み茶碗が飛んで壁に砕けた。途端《とたん》に血相《けっそう》を変えた二人が、両方から一緒に飛びかかって、――が、其の場は仏《ほとけ》の手前《てまえ》もあるからと、居合せた者が仲へ入ってやっと引分けている内に、丁度《ちょうど》張込んでいた刑事がどかどかと踏込んで来た。そして関係者一同はすぐに拘引《こういん》されてしまった。
しかし二時間ほどすると、エレキの喜多公だけを残して、他の一同は警察から帰されることになった。残された喜多公はお由の死んだ夜の行動について、何んと思ったか一言も口を利か無かったのだ。その時の吉蔵の供述《きょうじゅつ》はこうである。
「あっしは十時に店を閉めて、お由が留守だから久し振りで玉《たま》の井《い》へ行って見る気になりました。今戸から橋場《はしば》をぬけて白鬚橋《しらひげばし》を渡ったんです。けれど何うも気がすすまないんで、一通りひやかしてしまうと、二時頃には家へ帰って寝てしまいました。その翌朝《よくちょう》、何んの気なしに聞いていると、乾分の一人が昨夜《ゆうべ》喜多を玉の井で見かけたって噂を小耳にはさんだんで、お由が殺されていると言う報《しら》せを聞いたのは、それから間も無くでございました」
では、何故喜多公はその夜の行動を明らかに説明しなかったか? 土岐技手が其の夜国太郎に漏《もら》した言葉では、喜多公こと田中技手補は確《たしか》にその頃は変電所に勤務中ではなかったのか?
然し二三日後、喜多公がやっと口を開いた時には、こんな意外な陳述《ちんじゅつ》がされていた。
「実は、あっしは姐御、詰りお由さんに想いを掛けていたのです。で、幾度も気を引いて見ましたが、なかなか思うようにはなりませんので、あの日、灯が点くと間も無くお由さんが泊り掛けで根岸へ行ったと聞きましたので、あっしは根岸の家の番地を人知れず確《た》しかめて、お由さんの後を追って行きました。根岸へ着いたのは八時頃だったと覚えています。所が何うしても此処と思う家が見当りませんので、今度は一軒一軒裏口へまわって、お由さんの声を目当に探し廻りましたが、矢っ張り知れません。その中に十一時半になってしまいましたので、何んだか急に馬鹿馬鹿しくもなって、其の足でぶらぶら歩いて引っ返し、千住《せんじゅ》の万字楼《まんじろう》という家へ登《あが》って花香《はなか》という女を買って遊びました。登《あが》ったのは多分十二時半か一時頃でしょう。翌朝其処を出たのは六時半頃です」
「何故又そんな事を今まで隠していたんだ」
「へッへ、姐御の後を附けたなんてうっかり言っては、飛んだ嫌疑《けんぎ》が掛かると思いましたんで――」
警察では直ぐに万字楼を調べて見たが、大体彼の言った事に相違《そうい》はなかった。
お由の死亡時刻は解剖の結果、午前一時前後ということになっている。して見れば時間の点からいって、喜多公は親分の方より嫌疑が薄くなる訳で、一先《ひとま》ず彼も釈放されることになった。
警察では他に誰も容疑者として拘引しておらず、この事件はわりに無雑作に放置されている如く見えていたが、其の実捜索は八方に拡がっていて、少しでも怪しいと睨《にら》んだ者には必ず刑事が尾行していたのである。然しお由の死後七日までは、これぞと思う手懸《てがか》りは何等得ることが出来ずにいた。
すると八日目になって、初めて新しい二つの報告が集って来た。一つは、あの日以来吉蔵の店では冷蔵庫へ入れる氷を五貫目ずつ余計使っている事実、一つは、あの日を境にして失踪《しっそう》した者の一覧表の中から、山名国太郎という大学生がお由に似た年頃の婦人を自室に引き入れている所を一二度見た者があるという報告であった。
お由事件の為に特設された捜索本部は、この二つの報告に色めき立って、主任は直ちに吉蔵の店へ警察を向ける一方、山名国太郎の行方を八方に捜索させた。
吉蔵は警官の臨検《りんけん》に大小三個の冷蔵庫を直ぐ開いて見せた上、氷の消費量増加については、
「何にしろもうこんな陽気ですから、氷だって段々|殖《ふ》える一方でさあ」と、軽く説明した。然し主任がその位の説明で満足する筈はなく、当分夜の間刑事を吉蔵の店の床下に張り込ませて、何処までも事件の端緒《たんちょ》を掴《つか》むようにと手配した。
一方山名国太郎の失踪については、喜多公を変電所へ張って行った刑事から、偶然《ぐうぜん》手懸りがついた。というのは、変電所主任土岐健助宛の無名の手紙から足がつき、スタンプの消印で栃木県《とちぎけん》今市《いまいち》附近に国太郎が潜伏《せんぷく》していると判ったのである。
いよいよ国太郎が逮捕されたとなると、事件は、何う展開するであろう。国太郎とお由の密会には証人がある事だし、あの夜土岐技手が現場《げんじょう》へ呼ばれた時には、既にお由は死んでいたのだから、国太郎がこの他殺に全然無関係であるという事は説明出来まい。同時にお由の屍体遺棄が明らかになるので、土岐技手にも嫌疑の余地が出て来る。其の夜の勤務は土岐一人で他に証人が無いのだから、国太郎の言う通りお由が露路に一人でいたとすれば、其の間に健助がお由を襲うことも出来たのである。
こうして殺人犯人の嫌疑者は四人となった。
其の翌日の夕方、山名国太郎は今市
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