土岐健助は、初めて愕然《がくぜん》と声をあげた。そして、おずおずとお由の硬張《こわば》った腕を持ったが、勿論《もちろん》脈《みゃく》は切れていた。
「国ちゃん、一寸胸を開けて」
 青年が力一杯襟をはだけるのを待って、土岐は心持ち顔を赤らめながら、お由の乳房の下へぴたりと耳を押しつけて見た。少しの鼓動も無い。すぐに眼瞼《まぶた》をひらいて見たが、瞳孔《どうこう》はもう力なく開き切っていた。
「死んでいる。もう全く呼吸が無くなっているんだ」
「大変なことになったな――でも、どうして死んだんでしょう」
「どうしてって君、君は今までどうしていたんだい?」
 そう聞かれると、さすがに青年は此の年輩《ねんぱい》の技手に対して、赤い顔をした。が、何《いず》れにしても今の場合土岐の力を借りるより外、この気の弱い青年には縋るものが無かったので、前後も無く早口にこう話し出した。
 ――宵《よい》の灯《あかり》が点くと間もなく、お由は何時《いつ》もの通り裏梯子《うらばしご》から、山名国太郎《やまなくにたろう》が間借りをしている二階へ上って来たのであった。
「今夜はね、根岸《ねぎし》の里《さと》へ行って来るって胡魔化《ごまか》して来たのよ。私だって、たまにはゆっくり泊《とま》って見たいもの。――大丈夫よ。まさか親分だって、そんなに女房を疑っちゃ、お爺《じい》さんの癖に外聞が悪いもの。かまうもんか、知れたら知れた時の事さ」
 妖婦《ようふ》気取りのお由は、国太郎にぴったり寄添いながら非常に嬉しそうであった。そして散々この気の弱い青年をいじめぬいて、少しも側から離そうとはしなかったが、つい先刻《さっき》になって不図《ふと》気が変ってしまった。
「矢《や》っ張《ぱ》り私、帰った方が好《い》いわ。あんた怒りゃしないわね。又来るには泊らない方が出好いもの、ね」
「だってもう十二時過ぎだぜ」
「怖《こわ》かあないわ。こう見えたって白蛇のお由さんだもの。夜道なんか平気よ」
「じゃ、其処《そこ》まで送って行こう」
「無論だわよ」
 お由はまだ国太郎に絡《から》み纏《まつわ》りながら、裏梯子から表へ出た。が、塀を一つ曲って此処まで来ると、
「あら、私紙入れを置いて来ちゃった。ほら、先刻《さっき》帯を解いた時、一寸本箱の上へ置いたのよ。あんたが悪いんだから、いそいで取って来てよ」
 お由は国太郎の胸を肩で小突《こづ》いて、二人の時だけに見せる淫蕩《いんとう》な笑いを顔一杯に浮べていた。その濃艶《のうえん》な表情が、まだはっきりと国太郎の眼に残っているのに――
 すぐに紙入れを取って引返して来た時には、もうお由は此処に仆れていたのであった。
「初めは冗談だと思ったんですよ。けれど、様子が可怪《おか》しいんでしょう。だから驚いちゃって――」
「一体、君が此処へ帰って来るまで、詰《つま》りお由さんが一人で此処に残っていた時間は、どの位だったの」
「三分とは経っちゃいないんです」
「三分? そして君が帰って来た時、この露路に誰も人は見えなかった?」
「ええ。はっきり覚えてはいないけれど、たしか誰も見えませんでした」
 が、其時《そのとき》何故《なにゆえ》か変電所の四角な窓が、爛々《らんらん》と輝いていた事を青年は不図思い浮べた。
「困ったね、何方《どっち》にしても。どうする君は?」
 土岐の言葉に、急に自分の立場をはっきり思い起して、国太郎は忽《たちま》ち竦《すく》むように頭を抱《かかえ》てしまった。
「僕は、僕は殺されますよ。きっと、なぶり殺しにあわされるんだ!」
 それは何《な》んとも言えなかった。
 一体《いったい》お由は、今戸町《いまどまち》に店を持っている相当手広い牛肉店|加藤吉蔵《かとうきちぞう》の妾《めかけ》兼《けん》女房なのであった。が、悪い事にはこの吉蔵が博徒《ばくと》の親分で、昔「痩馬《やせうま》の吉《きち》」と名乗って売り出してから、今では「今戸の親分」で通る広い顔になっている。しかもお由はその吉蔵親分の恋女房であった。
 今から五年ばかり前、お由がまだ二十歳《はたち》で或る工場に働いていた頃、何処の工場でもそうであるが、夕方になるとボイラーから排出される多量な温湯が庭の隅の風呂桶《ふろおけ》へ引かれて、そこで職工達の一日の汗を流すことになっている。その鉄砲風呂の中から、お由の膚理《きめ》のこまやかな、何時もねっとりと濡れている様な色艶の美しい肌が、工場中の評判になってしまった。
「お由さんの体は、まるで白蛇のようね」
 その白蛇の様な肌を、何かの用で工場へ来合《きあわ》せた吉蔵が一目見て、四十男の恋の激しさ、お由に附纏《つきまと》う多くの若い男を見事撃退して、間も無く妾とも女房とも附かぬものにしてしまったのである。
 こうしてお由は娘から忽ち姐御《あねご
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