脳の中の麗人
海野十三
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)ねえ、博士《せんせい》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)患者|宮川宇多郎《みやがわうたろう》
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奇異《きい》の患者
「ねえ、博士《せんせい》。宮川さんは、いよいよ明日、退院させるのでございますか」
「そうだ、明日退院だ。それがどうかしたというのかね、婦長《ふちょう》」
「あんな状態で、退院させてもいいものでございましょうかしら」
「どうも仕方がないさ。いつまで病院にいても、おなじことだよ。とにかく傷も癒《なお》ったし、元気もついたし、それにあのとおり退院したがって暴《あば》れたりするくらいだから、退院させてやった方がいいと思う」
「そうでしょうか。わたくしは気がかりでなりませんのよ」
「婦長。君は儂《わし》のやった大脳移植手術を信用しないというのかね」
「いえ、そんなことはございませんけれど……」
「ございませんけれど? ございませんが、どうしたというのかね」
「いいえ、どうもいたしませんが、ただなんとなく、宮川さんを病院の外に出すことが心配なんですの。なにかこう、予想もしなかったような恐《おそ》ろしい事が起りそうで」
「じゃやっぱり君は、儂の手術を信用しとらんのじゃないか。まあそれはそれとしておいて、とにかく儂は宮川氏を退院させたからといって、後は知らないというのじゃない。一週間に一度は、宮川氏を診察することになっているのだ」
「まあ、そうでございましたか。博士が今後も診察をおつづけになるのなら、わたくしの心配もたいへん減《へ》ります。ですけれど、いまお話の今後の診察の件については、わたくし、まだちっとも伺《うかが》っておりませんでした」
「それはそのはずだ。診察をするといっても、患者を診察室によびいれて診察するのではない。宮川氏は、診察されるのは大きらいなんだ。逆《さか》らえば、せっかく手術した大脳に、よくない影響を与《あた》えるだろう。逆らうことが、あの手術の予後《よご》を一等わるくするのだ。だから儂は、すくなくとも毎週一度は、宮川氏の様子を遠方《えんぽう》から、それとなく観察するつもりだ。それが儂のいまいった診察なんだ。このことは当人宮川氏にも、また病院内の誰彼《たれかれ》にも話してない秘密なんだから、そのつもりでいるように」
黒木博士と看護婦長との会話にあらわれた問題の患者|宮川宇多郎《みやがわうたろう》氏は、わが身の上にこんな気がかりな話があるとはしるよしもなく、病室内を動物園の狼《おおかみ》のように歩きまわっている。
彼は今朝、病院内の理髪屋《りはつや》で、のびきった髪を短く刈り、蓬々《ぼうぼう》の髭《ひげ》をきれいに剃りおとし、すっかり若がえった。だが、鏡に顔をうつしていると、久しく陽に当らなかったせいか、妙に蒼《あお》ぶくれているのが気になった。それにひきかえ、後頭部の手術の痕《あと》は、ほとんど見えない。これは手術に電気メスを使うようになって、厚い皮膚でも、逞《たくま》しい肉塊《にくかい》でも、それからまた硬《かた》い骨でも、まるでナイフで紙を裂《さ》くように簡単に切開できるせいだった。よく気をつけてみると、毛髪《もうはつ》の下の皮膚が、うすく襞状《ひだじょう》になっているのが見えないこともないが、それが見えたとて、誰もそれを傷痕《きずあと》と思う者がないであろう。じつにおどろくべき手術の進歩だ。
そのように手術の痕は至極単純であるのにもかかわらず、彼はこの病院に一年ちかく入っていたのだ。
「おお、明日からは、自由の身になれる。うれしいなあ」
と、彼は子供のようにぴょんぴょん室内をとびあるいていた。そうかと思うと、急にむずかしい顔をして、ぶつぶつつぶやきながら動物園の狼になりきってしまう。
「想い出しても、おそろしい一年だった。いや、一年の月日がたったことは本当だが、自分は一年というものをすっかり覚えていないのだ。正気《しょうき》づいたときは、すでに半年あまりの月日がたっていたのだからなあ。その間《あいだ》自分は、全く無我夢中で、生死の間を彷徨《ほうこう》していたのだと後になって聞かされた。それからこっちも、ときどき変な気持に襲われた。なんだか、五体がばらばらに裂けてしまうような実に不快な気持に陥《おちい》ったのだ。なにしろ、物を考える機関である大脳の手術をやったのだというのだから、恢復までに、どうしてもそうした不安定な過渡期《かとき》をとるのだと黒木博士が説明してくれたが、そんなものかもしれない」
今も昂奮《こうふん》と憂鬱《ゆううつ》とが、かわるがわる彼を襲ってくるのだった。彼は、手術のことについて、博士に聞きただしたいたくさんの事柄《ことがら》をもっていた。だが博士は、元来無口な人で、患者が自分の病気について深入りした質問を発するのが大嫌いのように見えた。
「なんでもいい。とにかくこのとおり元気になって、退院できるのだから」と、彼は諦《あきら》め顔《がお》にいって、「さあ、いよいよ明日から、自分の好きなところへ行って、好きなことができるんだぞ。うれしいなあ。さて、明日病院の門を出たら、第一番になにをしようかなあ」
謎の手帖
彼は、黒木博士の世話で、目黒区にある黄風荘《こうふうそう》というアパートに入った。
彼は、親には早く死にわかれ、兄弟もなければ妻子《さいし》もなく、天涯孤独《てんがいこどく》の身の上だった。財産だけは、親譲《おやゆず》りで相当のものが残されていた。毎月の末になると、某信託会社《ぼうしんたくかいしゃ》から使者が来て、規定どおり五百円の金をおいてゆくのだった。
入院費や手術費とは別に、多額の金が、その信託会社から支払われたそうである。だから黒木博士も病院も、彼の面倒を十二分にみることができたのである。
黄風荘の彼の借りている部屋は、三間もある広々とした上等のところだった。
見覚えのある彼の持ち物や調度が、室内にきちんと並んでいた。
「ふーん、悪くない気持だて」
彼は悦《えつ》に入《い》って、頤《あご》のさきを指でひねりまわしながら、室内を見まわした。セザンヌが描いた南フランス風景の額がかかっている。南洋でとれためずらしい貝殻の置き物がある。本箱には、ぎっしりと小説本が並んでおり、机のうえには杉材でこしらえた大きな硯箱《すずりばこ》がある。すべて見覚えのある品物だった。
彼は、懐《なつか》しげに、一つ一つの品物をとりあげては撫でてまわった。
そのうちに、彼の手は、机のひきだしにのびた。ひきだしを明けて、中の品物をかきまわしているうちに、彼は青い革で表を貼ったりっぱな手帖に注意をひかれた。
「おや、こんな手帖が入っている。見覚えのない品物だが……」
なぜ自分の所有ではない青い手帖が、ひきだしの中に入っているのか? 誰かが引越のとき間違えて、このひきだしの中へ入れたのであろうと思いながら、彼はその手帖をひらいてみた。とたんに、彼は思わず大きなおどろきの声をあげた。
なぜといって、その手帖にこまかく書きこんである文字は、たしかに彼の筆蹟《ひっせき》だったのであるから。
「ふーむ、これはたしかに自分の筆蹟にちがいない。だが、この手帖は、さらに見覚えのない品物だ。一体どうしたというんだろう」
彼は、すっかり気持がわるくなった。
たしかに自分の筆蹟にちがいないのに、その手帖には見覚えがない。こんなふしぎなことがあろうか。
その疑問を解くために、彼はつとめて気を鎮《しず》めながら、手帖に書かれた文句をよみはじめた。
こんなことが書いてあった。
「五月××日。天気がいいので、堀切の菖蒲園《しょうぶえん》へいってみる。かえりに、浅草《あさくさ》へ出て、映画見物。家へかえったのは午後十一時半だった。部屋の鍵をあけたとたんに、背後《うしろ》から声をかけられた。ぷーんと髪の香《におい》がした。Yだ。Yが立っている。しかたがないので、部屋へ入れる。かえれといったがかえらない。無理やりに泊《とま》ってゆく。困ったやつだ」
彼は、これを読んで、溜息《ためいき》をついた。そして首をふった。
「へえ、どうしたというんだろう。一向に覚えがないが……」
この日記によると、Yという女が、夜おそくまで、部屋の外に立って、主人公のかえりを待っていたというのだ。女は主人公が部屋の錠《じょう》をあけたときに、声をかけた。そして無理やりに泊っていったという。これでみると、Yという女は、気の毒にも主人公から冷淡《れいたん》にあつかわれている。Yという女の姿が見えるようで、たいへんいじらしくなった。
それでいて、この日記の主人公なる者が、一体誰なんだか分らないのだった。
その主人公こそは、彼――宮川宇多郎なのであろうか。
「いや、断じて、自分ではない。自分には、そんな記憶がない」
記憶がないから、自分ではないと思ったものの、この手帖は自分の机のひきだしの中に入っていたことといい、その日記の筆蹟が、たしかに自分のものであることといい、じつに気持のわるいことに覚えた。一体、どうしたというのだろう。
彼は、さらにその手帖の頁をくって、先を読んだ。
「五月××日。Y、夕方暗くなって、かえってゆく。もうこれでお別れだという。もう諦《あきら》めたともいう。どうかあやしいものだ。いつもその手をつかう。かえったあとで、座蒲団《ざぶとん》を片づけると、下から私の写真がでてきた。その写真は、ずたずたにひき裂いてあった。さっき私の写真を一枚くれと熱心に頼んだものだから、つい与えたのだが、Yのやつ、持ってゆかないで、こんなひどいことをしやがった」
Yという女が、奮然《ふんぜん》と主人公の写真をやぶくところが、目の前に見えるようだ。だがこのくだりも、彼には全然記憶のないことであった。彼は、なんだか気持がへんになってきた。じっと部屋にいるのが、いやになった。持ち物をとりあげて懐《なつか》しがる気も、もうどこかへいってしまった。彼は気をかえるために、着ながしのまま、ぶらりと外へ出た。
怪《あや》しい尾行者《びこうしゃ》
雨はあがっていたが、梅雨空《つゆぞら》の雲は重い。彼は、ふところ手をしたまま、ぶらぶらと鋪道《ほどう》のうえを歩いてゆく。
着ているのはセルの単衣《ひとえ》で、足につっかけているのは靴だった。下駄を買っておくのを黒木博士は忘れたものらしい。宮川には、和服に靴というとりあわせが、それほど不愉快ではなかった。
上《あが》り坂《ざか》の街を、ぶらぶらのぼってゆくと、やがて大きな社《やしろ》の前に出た。鳥居の間から、ひろい境内《けいだい》が見える。太い銀杏樹《いちょうのき》が、百日鬘《ひゃくにちかずら》のように繁っている。彼は石段に足をかけようとした。そのときふと背後に人の気配《けはい》を感じて、あとをふりむいた。
そこには、背広服をきた一人の青年が立っていた。ひどくくたびれたような顔をしている。色艶《いろつや》のわるい、むくんだような顔、下瞼《したまぶた》はだらりとたるみ、不快な凹《へこ》みができている。そして帽子の下からのぞいている大きな眼だ。その大きな眼が、宮川をじっと見つめていたのである。
「うむ」
宮川は、なんとなく襲《おそ》われるような気持で、おもわず呻《うな》った。
気のせいか、その怪《あや》しげなる男も、なんだかぶるぶる身体をふるわせているようであった。
宮川は、石段をふんで、駈けあがった。そして境内へどんどん入っていった。社殿《しゃでん》の後に駈けこんで、そこでおずおず、うしろをふりかえった。怪しい男は、見えなかった。まず助かったと、彼はどきどきする心臓をおさえながら、社殿のうしろにベンチをみつけ、それに腰を下ろした。
「彼奴は何者だろうか?」
彼はまだはあはあ息をきりながら、頭の中に今見た怪しい男の顔付を気味わるく思いうかべた。
彼の腰をおろしているすぐ前に、誰が捨てたか、地上に捨てられた煙草の吸殻《すいが
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