ら》があった。まだ火がついたままで、紫色の煙が地面をなめるように匐《は》っていた。彼はそれを見ると、急に煙草が吸いたくなった。彼は、汚いという気持もなく、吸殻《すいがら》の方へ手をのばして、泥《どろ》をはらうと口にくわえた。
すばらしい煙草の味だった。だが、間もなく火は彼の指さきに迫って、もうすこしで火傷《やけど》するところだった。彼はびっくりして、吸殻を地上に放りだした。
「あははは、宮川さん。あなたは煙草を吸うようになりましたね、おそろしいもんだ」とつぜん背後《うしろ》から声をかけられ、彼は腰をぬかさんばかりにおどろいた。ぱっとベンチからとびあがってうしろをふりむくと、
「あっ、君は――」といった。
さっきの男だ。怪しいぎろぎろ眼玉の顔色のわるい、青年であった。
「君、君は一体だれですか」
宮川は、いつの間にか、またベンチに腰をおろしていた。蛇《へび》にみこまれた蛙《かえる》といった態《てい》であった。
「僕ですか。僕をご存知ないのですか」
青年は、すこしずつ彼の方によってきた。
「知らないよ。人まちがいだ。早く向うへいってくれたまえ」
「そんなことをいうものじゃありませんよ。僕は矢部というものです。あなたはご存知ないかもしれないが、僕の方はよく知っています」
怪青年矢部は、つらにくいほど、ゆっくりした語調でいって、無遠慮《ぶえんりょ》に宮川の横にかけた。
「とにかく、僕は君に見覚えがない。たのむから、早く向うへいってくれたまえ」
「よろしい、向うへいきましょうが、ここまでついて来たには、こっちにすこし用事があるんです。金を五十円ばかり貸してください」
「なんだ、金のことか。五十円ぐらい、ないでもないが、見ず知らずの君に、なぜ貸さねばならないか、その訳がわからない」
宮川も、すこし落付《おちつき》をとりもどして、逆襲したのだった。
「ははあ、その訳ですか。あなたは本当にご存知《ぞんじ》ないのですか。これはおどろきましたね」といって、矢部は帽子を脱いだ。
「なんだい、そ、それは……」
宮川はさっと顔色をかえた。矢部が帽子をぬぐと、なんとその下からは、ぐるぐる巻に繃帯《ほうたい》した頭が現れたのだった。
「これでお分りになったでしょう。あなたが、頭に大きな傷をうけて、もう死ぬしかないという切迫《せっぱ》つまったときに、ここから僕の脳髄の一部を裂いて、あなたの脳につぎあわせたんです。見事にその大手術をやってのけた黒木博士も、あなたの再生の恩人なら、脳髄を提供した僕もまた、あなたのためには大恩人なんですよ。それを忘れて、僕を袖にするなんて、そんな恩しらずなことがありますか」
怪青年矢部は、とんでもないことをいいだした。
脳を売った男
「うそだ、うそだ。そんなことはうそだ」と、宮川はつよく否定した。
「なに、僕がうそをいっているんですって」と怪青年矢部は唇を曲げて笑い、「あははは、そう思いますかね。では、ちょっと聞きますが、あなたはさっき煙草を吸っていましたね。うまかったですか」
そういいながら、矢部はポケットから巻煙草をとりだして、火をつけた。
宮川は、煙草の匂《にお》いをかぐと、咽喉から手が出そうになった。
「一本、あなたにあげましょうかね」
「じゃ、もらおう」
宮川は、煙草をすいたい慾望を制しきれなくて、手を出した。そして火をつけるのも待ちどおしい様子で、すぱすぱと煙を肺の奥に吸いこんだ。
「どうです。煙草はうまいでしょうが。ところで僕は質問しますけれど、あなたは手術前には煙草が大きらいだったじゃありませんか。それを思い出してごらんなさい」
「あっ――」
宮川は、びっくりして、指さきから煙草をぽろりと地上にとりおとした。
そうだ、煙草ぎらいで通った自分だった。しかるに今は、煙草の匂いをかぐと、吸わずには我慢しきれないのだ。一体これはどうしたのだろうか。
「どうです、わかったでしょう。煙草好きの僕の脳を、あなたの脳につないだから、そうなったんです。いや、きょうあなたに会いたかったのは、金も使いはたして欲しくはあったが、僕の脳を植えつけた後のあなたが、どんな風になっているかを見たい気持もあったんです。全《まった》くおそろしいもんだ。あなたは煙草ずきになった。おかげで僕は煙草がたいへんまずくなってさびしい。この繃帯の下には、あなたと同じような手術の痕《あと》があるんですぜ。その下をあけてみると、僕の脳は、或る部分欠けているのです。僕は金のために、それをあなたに売ったけれど、その金を使いはたしてしまった今日《こんにち》、惜しいことをしたと後悔しています。近来、どうも身体の具合がよくなくていけないのです。美枝子にも会いたいと思うが、こんな身体だから、遠慮しているんだ」
矢部青年は、ひとりでべらべらととりとめもないことを喋《しゃべ》った。
宮川には、矢部のいうことが腑《ふ》におちないながらも気の毒になって、彼に金をやることにした。
矢部は、紙幣《さつ》をありがたそうに頂《いただ》いて、ポケットにおさめたが、そのあとで訴えるような目つきでいったことである。
「全くの話が、金に困って居らなければ――いや、美枝子という女を知らなかったら、僕の脳の一部を売ったりはしなかったんですよ。あんまりいい値段だったもんで、つい黒木博士のさそいにのっちまったんです」
宮川は、今やしみじみと、一年間の入院のあとをふりかえらずにはいられなかった。自分がこうして再生して、全快するまでには、こうした大きな犠牲もあったのであるか。前代未聞《ぜんだいみもん》の脳の売買だ。黒木博士は、やりもやった。またこの矢部青年も、よく売ったものである。
「一体、君はどの位の値段で、脳の一部とかを博士に売ったのですか」
「それは――」といいかけて、矢部は俄《にわか》に口をつぐんだ。そして悲しげな顔になって、「それは云うのをよしましょう。とにかく莫大《ばくだい》な金でした。大きな土地を買って、りっぱな邸宅をたてることができるくらいの金でした」
宮川は、脳の一部の値段が、そんなに高いものかと、聞いておどろいた。矢部の口ぶりからすれば、すくなくとも五六万円らしい。それだのに、彼は一年たつかたたないうちにその莫大な金を使いはたし、いまたった五十円の金に困って無心をしているのだ。なんとかいう女のためとはいえ、あまりにもはげしい金の使い方だった。宮川は、その点に不審をおこした。矢部のいうことは嘘言《うそ》ではないか。
「いいえ、うそではありません。たしかにそれくらいの金は握ったんです。それをどうして使ってしまったというのですか。それはですね」と矢部は宮川の方へ顔を近づけていった。「相場《そうば》をやったのですよ。相場ですっかりすってしまったのです」
「それは乱暴だな。自分の脳を売った金で、相場をやるなんて。そのなんとかいう君の愛人にだって、気の毒な話じゃありませんか」
宮川も、つい抗議めいたことをいいたくなっていった。
すると矢部青年は、首を左右にふって、灼《や》けつくような視線を宮川の面《おもて》に送って云うには、
「乱暴かもしれません。たしかに僕は相場で失敗したのですからね。ですけれど宮川さん。もしも相場で僕が何倍かの大金を儲《もう》けたら、僕はなにをするつもりだったか、あなたにお分りですか」
宮川は、矢部の激しい語気《ごき》におされて、うしろへ身をひきながら、
「さあ、僕には、君がそのような大金をなんに使うつもりだったか分らないねえ」
とこたえた。すると矢部は、ぎりぎりと歯ぎしりをして叫んだのであった。
「ぼ、僕は、あなたに売った脳を買い戻したかったんだ。売った値段の二倍でも三倍でもなげ出すつもりだったんだ。だが、とうとう僕は失敗した。でも、いつか僕は、あなたの頭蓋骨《ずがいこつ》の中から、きっと僕の脳を買い戻してみせる!」
ベンチのうえに真青《まっさお》になった宮川を尻眼にかけて、怪青年矢部はすたすたと足早に、向うに立ち去った。
禁断《きんだん》の女
ひとりになった宮川は、あらためて戦慄《せんりつ》の復習をやった。
なんというおそろしい男だろう。
一旦自分の脳を売っておきながら、その金で相場をやって、儲かればその金で、自分の脳を買い戻そうというのだった。
買い戻すといっても、彼の脳は、いまはちゃんと他人の脳室に入っているのである。いくら金を積んでも、いやだといったら、彼矢部は一体どうするつもりだろうか。
暴力か? あの権幕《けんまく》では、腕ずくで、持ってゆくかもしれない。暴力ならば、たとえ金がなくても実行ができるのだ。
(これはたいへんなことになった!)
と、宮川はぶるぶるとふるえた。
彼は、もう立ってもいてもいられなかった。そこで街をとおりかかるタクシーを呼びとめると、助けを乞うために、黒木博士の病院にとかけつけた。
「なあんだ、そのことですか。別に心配することはないですよ」
博士は、すこぶる落付いたものであった。
「ねえ、宮川さん。こういうことを考えたらいいではありませんか。たとえ矢部という男が百万の金を儂《わし》の前に積んだとしても、儂が手術を断《ことわ》れば、それでどうにも仕方がないではないですか」
「それは本当ですか、博士」と宮川はおもわず博士の手を握りしめたが、「だが、あの男は暴力でもって、私の頭蓋骨をひらいて脳をとりかえすかもしれません」
「いくら暴力をふるおうと、脳の手術の出来るのは、自慢でいうじゃないが、この儂一人なんだから、儂がいやだといえば、矢部がいくら騒いでも何にもならんではないですか」
「そうですね。それでは、本当に安心していて、いいわけですね」
宮川は、はじめて気が落付くのを感じた。
その後、矢部はちょくちょく宮川のところへやって来た。そしてそのたびに、五十円だとか六十円だとかを、せびっていった。金さえもらえば、矢部は案外おだやかな人物であった。宮川は、ようやく本当に矢部に出会《しゅっかい》以来の落付をとりもどすことが出来たのだった。
宮川が、矢部事件による緊張から解放されると、こんどは生活が急に退屈になってきた。彼は女の友達が欲しくなった。
彼は思い出して、机のひきだしの奥から、例の青い革表紙《かわびょうし》の手帖をとりだして、にやりにやりと笑いながら、いくども読みかえした。大したことも書いてないながら、その簡単な日記文に現れるYという女のことが、妙に懐《なつか》しがられてくるのだった。
このYという女は、その後どうしたろう。この手帖の主人公と別れてしまったようだが、その後どうしているのであろうか。とにかく、このYという女は、手帖の主人公をたいへん恋《こ》い慕《した》っているのだ。その主人公の筆蹟が、彼の筆蹟とおなじであるのは、一体どうしたわけであるか。
この疑問をとくため、彼は或る日博士をたずねて、この問題を出した。
「えっ、そんなものがあったかね」
「ありますとも。ここに持ってきました」
彼は青い手帖をとりだした。
博士は、深刻な顔をして、手帖の頁をくっていたが、俄《にわか》に笑いだした。
「ああ、これは儂《わし》のところの助手で谷口という男の手帖ですよ」
「でも、その手帖は、私の机の中にあったんです」
「そ、それですよ。じつは、谷口を、君のアパートの引越のとき、手伝いにつれていったんです。そのときポケットからとりおとしたのを、他の誰かが拾って、宮川さんのものだと思って、机の中に入れたのでしょう。いや、それにちがいありません」
「それはおかしいですね。筆蹟が、私のにそっくりなんです」
「こういう字体は、よくあるですよ。なんなら谷口をよんでもいいが、いま生憎《あいにく》郷里《きょうり》へかえっているのでね」
「私は、そのYという女に会いたくてしかたがないのです」
「えっ、それは駄目だ」と博士は目をむいていった。
「駄目です、駄目です。他人の女にかかりあってはいけない」
「本当に、そのYというのは、谷口さんの愛人なんですかね」
「そうで
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