す。それにちがいありません」
 博士はひどくせきこんで、なるべく早く宮川を納得《なっとく》させようとしている。
 このとき宮川はいった。
「博士。私はちかごろになって気がついたんですが、いろいろな記憶を失っているんです。どうも気持がわるくてなりません。博士、どうぞ教えてください。あの黄風荘《こうふうそう》というアパートにいた前、私はどこに住んでいたのでしょうか。どうか、その前住居《ぜんじゅうきょ》を教えてください」
 博士は、首を大きく左右にふって、
「ねえ宮川さん。あんたはつまらんことを気にしていけないですよ。脳の手術はもうすんだが、まだ養生期《ようじょうき》だということを忘れてはいけないです。もうすこし落付くと、きっと記憶は元のように戻ってきます。それまでは、辛かろうが、一つしんぼうするのですな」


   矢部の愛人


 宮川の生活は、それ以来さらに退屈を加えたようであった。
 或る日、例の青年矢部が金をもらいにやってきたとき、彼はいつになく、手をとらんばかりにして矢部を室内に招《しょう》じ入《い》れた。
「よく来たね。矢部君。きょうは君に八十円ばかり用達《ようたし》をしてもいいと思っていたところだ」
「ほんとですか」
 矢部は、すぐれない顔色に、微笑をうかべていった。
「ほんとだとも。そのかわり、僕のどんな質問に対しても、君は正直にこたえるんだよ。いいかね」
「ははあ、交換条件ですか。ようございます。八十円いただけますなら、当分栄養をとるのに事かきませんから。なんですか、質問というのは」
 それを聞くと、宮川はにやりと笑い、
「大いによろしい。いや、質問といっても、大したことじゃないんだ。君はちかごろ、美枝子《みえこ》さんというひとに会うかね」
「美枝子にですか。いや、会いません。こんなあさましい窶《やつ》れ方《かた》で会えば、愛想《あいそう》をつかされるだけのことですからねえ」
「それはへんだね。そんなに永く美枝子さんに会わないでいられるとは、おかしいじゃないか。君の愛情が冷えたのではないか」
「そういわれると、すこしへんですがね。第一ちかごろ健康状態もよくないことも、原因しているのでしょう。質問というのはそんなことですか」
「いや、もう一つあるんだ。その美枝子さんというのは、丸顔のひとで、唇が小さく、そして両頬に笑《え》くぼのふかいひとじゃないかね」
「ああ、そのとおりです。あなたは、どうしてそれを知っているんですか」
「いや、この前いつだか君から話をきいたことがあったじゃないか」
 と、宮川は嘘言《うそ》をついた。美枝子のことをなぜ宮川が知っているか。それをいえば、矢部はきっとびっくりするに相違ない。
「どうだい、矢部君。これから二人して、美枝子さんがどうしているか、その様子をそっと見にいってみようじゃないか」
「そ、そんなことを……」
 と、矢部は尻ごみしたが、宮川はおっかけいろいろといい含めて、ついに矢部をひっぱり出すことに成功したのだった。
 矢部の案内で、宮川は丸の内の或るビルの前へいった。
 宮川は、新調の背広に赤いネクタイをむすんで、とびきり豪奢《ごうしゃ》な恰好をしているのに対し、矢部は例によって、くたびれきった服に身体をつつんでいた。
 やがて時刻とみえて、ビルの横合《よこあい》の出口から、若い男や女が、ぞろぞろと出てきた。
 それを見ると、矢部はすっかり怯気《おじけ》づいて、逃げてゆこうとした。宮川は、その手をしっかと握って、自分の傍にひきつけて放さなかった。
 宮川は、ビルの中から出てくるおびただしい女たちの顔を、いちいち首実験していたが、そのうちに、矢部の手をぐっと強く握って、
「おい、あの女だろう。空色のジャンバーを着て、赤い細いリボンをまいた黒い帽子をかぶっているあの女――ほら、いまハンドバッグを持ちかえた女だ」
「そうです、美枝子ですよ。宮川さん、放してください。僕は美枝子に会うのはいやだ」
「そんな気の弱いことでどうするんだ。ほら、美枝子さんは、こっちへ来る」
 そういっているとき、美枝子の視線が二人の男の方に向いた。そしてはっとした様子で、足早《あしばや》にちかよってくる。矢部は、宮川の手を力一杯ふりきって、逃げてしまった。
 後に宮川はひとりで立っていた。彼の眼は、いきいきと輝いていた。まるでゲーテが、久方《ひさかた》ぶりで街で愛人ベアトリッチェに行きあったような恰好であった。
「ああ美枝子さん」
「まあ、どなたですの」といって女は宮川につかまれた手をふりほどきながら、「ああ、あの人をつかまえてください、矢部さんを」と身体をもだえた。
「ああ、矢部君のことですか。彼はあなたに会うのが恥《はずか》しいといって逃げたんです。だが、私にまかせて置きなさい。わるいようにはしない」
「まあ、あなたは一体どなたですの。矢部さんのお友だち? ――ちょっと、皆がみていますわ。手をはなしてくださらない」
 宮川は、いつの間にか、女を両腕の中に抱いていたのだ。彼女に注意されて、びっくりして腕を解《と》いた。なぜ彼は、そんなに昂奮《こうふん》したのか、彼自身にもふしぎなくらいだった。
「ねえ、美枝子さん。私はぜひあなたに会いたいと思って、矢部君に案内してもらったんですよ。どうです、これからどこかで御飯でもたべながら、ゆっくりお話をしようじゃありませんか」
 宮川の唇から、すらすらとこんな言葉がでてきた。これもふしぎであった。
「まあ、はじめてお目にかかったのに、ずいぶん積極的ね。――でもいいわ、御馳走になりますわ。あなた、ほんとにすばらしい方ね」
 そういって美枝子は、宮川のすんなりとした身体を背広のうえから撫でた。


   待っていた怪女


 その翌日のことだった。
 宮川は、久しぶりで黒木博士を病院に訪ねたのだった。
「おお宮川さん。だんだん元気がつかれて、結構ですな」
 宮川はそれには、挨拶《あいさつ》もせずに、
「博士、今日は折いっておねがいに来ました。あの矢部君の残りの脳を買いとって、私のここに入れてください」
 そういって彼は、自分の頭を指さした。
「それはまたどうしたのですか」
「いや、女の問題です。じつはこういうわけです」
 と、語りだしたところによると、宮川は、手術|恢復後《かいふくご》、頭の中に一人の女性の幻《まぼろし》がありありと見えるようになった。彼はその女性がたいへん慕《した》わしくて、なんとかしてその本人があるなら会いたいと思っていた。ところが、その幻の女こそ、矢部の愛人|山崎美枝子《やまざきみえこ》だということがわかった。
 その美枝子に、宮川はきのうはじめて会った。そして幻の女は、まちがいなくこの女であると確《たし》かめた。美枝子もはじめて会った彼に、たいへん熱情をよせた。
 彼が矢部のことをたずねたところ、彼女はきっぱりと説明した。
(矢部さんはあたしが大好きだというんです。そしていろいろと自分でも無理算段《むりさんだん》をしたようですわ。でもあたし、矢部さんがどうしてもすきになれませんのよ)
(でも、さっき、あなたは矢部君をよびとめたではありませんか)
(そうよ。だって、あの人がいろいろ無理をして買ってくれたものがあるんですもの。あたし、それをかえしたいとおもったのよ)
 そこで宮川の胸もはれて、美枝子の手をとったというのだ。
 そこまではよかったけれど、やがてのこと彼は、美枝子をすっかり憂鬱《ゆううつ》にさせてしまったというのだ。
「それはどうしたわけですか」
 博士は宮川の面《おもて》を熱心にみつめながら尋《たず》ねた。
「それはつまり、私の心が冷たいといって、彼女が口惜《くや》しがりだしたんです」
「あんたはなにか冷淡《れいたん》な仕打《しうち》をしたのですか」
「そこなんですよ博士、はじめは私も熱情を迸《ほとばし》らせたようですが、あるところまでゆくと、急にその熱情が中断してしまったのです。そして俄《にわか》に不安と不快とに襲われたのです。そのとき頭の中に、別の一人の女の顔が現れました。それは日本髪を結った白粉《おしろい》やけのした年増の女なんです。その女が、髷《まげ》の根をがっくりと傾《かたむ》け、いやな目付をして私に迫ってくるのです。払えども払えども、その怪しい年増女が迫ってきます。そういう不快な心のうちを、どうして美枝子に話せましょう。彼女にとって私が冷淡らしく見えたというのは、まだよほど遠慮した言葉づかいでしょう。きっとそのとき私は、塩を嘗《な》めた木乃伊《ミイラ》のように、まずい顔をしていて、しゃちこばっていたに相違ありません」
「それで、なぜあなたは矢部氏の脳をほしがるのですか」
「わかっているじゃありませんか。矢部君の脳室の中には、美枝子を慕《した》う情熱を出す部分がまだ残っているのにちがいありません。それを切り取って、私にうつし植えてください。私の持っている金は、いくらでも矢部君にあげてください」
 博士は、黙って考えこんだ。
「それからもう一つおねがいです。あのいやな日本髪の年増女《としまおんな》の幻が出るところの脳の部分を切り取って捨ててください。そうだ。もし矢部君が欲しいというのなら、その部分を、彼に植えてやってください」
「それはたいへんなことだ」
「博士、ぜひ早いところ、また手術をしてください。一体あの白粉《おしろい》やけのした年増女は、どこのだれなんですか」
 博士は、その質問にはこたえないで、
「うむ、とにかく矢部氏に相談してみよう」
 と、言葉すくなに云った。
 それから一週間ほどして、黒木博士は再び脳手術にとりかかった。手術室には、右に宮川、左に矢部が寝かされていた。
 こんどの手術は、わりあい簡単にいった。半年もすると、矢部の方は、まだいくぶん元気がなかったが、宮川の方はもう退院できるようになった。
「おい婦長。いよいよ宮川氏は明日退院させるが、君になにか意見はないかね」
「まあ、黒木|博士《せんせい》。わたくしになんの意見がございましょう。この前は、宮川さんがたいへんな外傷《がいしょう》を負っていらしったせいで、あのように手術後の恢復も長引き、精神状態も危かしかったのでございましょうね」
「まあ、そんなところだろうよ」
 看護婦長すら満足したほどの治癒《ちゆ》程度で、宮川は退院した。
 病院の門を出て、彼が一つの町角《まちかど》を曲ると、そこには洋装の佳人《かじん》が待っていて、いきなり彼にとびついた。それは外ならぬ山崎美枝子だったのである。
「まあ、宮川さん。ずいぶん待ってたわよ」
「おお美枝子さん。こんどこそ僕は、君を失望させないよ」
 二人は小鳥のようにたのしそうによりそいながら、向うの通りに消えた。
 ところが、それから二三日たって、宮川は真白な救急車にはこばれて、黒木博士の病院へかえって来た。彼の顔には、白い布《ぬの》がかぶせてあった。博士は、その布をのけて宮川の後頭部をしらべたが、そこには描写《びょうしゃ》のできないほどのひどい傷があった。
「警部さん、連れの女はどうしました」
「ああ、黒木博士、連れの女は、逃げてしまいました。行方を厳探中《げんたんちゅう》です」
「犯人の方はどうしましたか」
「ああ、八形八重《やがたやえ》という年増女ですか。これはその場で取押《とりおさ》えて、一時本庁へつれてゆきました」
「精神病院から逃げだしたんだそうですね」
「そうです。ですが、この八形八重という女は、どうも正気《しょうき》らしいですぜ。この前の事件で、刑務所に入るのがいやで、装っていたんじゃないですかなあ。被害者宮川のうしろから忍びよって兇器《きょうき》をふるったことを、こんどははっきりした語調でのべました」
「ふーん、そうですか」
「こんどまた被害者宮川が博士の手で生きかえれば、きっとまた殺さないでおくべきかといっていましたよ。まるで芝居のせりふもどきですよ、ははは」
「いや、この傷では宮川氏はもう二度と生きかえらないでしょう」
 宮川は、彼が捨てた八形八重のため、二度も兇刃《きょうじん》を
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