ってゆかないで、こんなひどいことをしやがった」
Yという女が、奮然《ふんぜん》と主人公の写真をやぶくところが、目の前に見えるようだ。だがこのくだりも、彼には全然記憶のないことであった。彼は、なんだか気持がへんになってきた。じっと部屋にいるのが、いやになった。持ち物をとりあげて懐《なつか》しがる気も、もうどこかへいってしまった。彼は気をかえるために、着ながしのまま、ぶらりと外へ出た。
怪《あや》しい尾行者《びこうしゃ》
雨はあがっていたが、梅雨空《つゆぞら》の雲は重い。彼は、ふところ手をしたまま、ぶらぶらと鋪道《ほどう》のうえを歩いてゆく。
着ているのはセルの単衣《ひとえ》で、足につっかけているのは靴だった。下駄を買っておくのを黒木博士は忘れたものらしい。宮川には、和服に靴というとりあわせが、それほど不愉快ではなかった。
上《あが》り坂《ざか》の街を、ぶらぶらのぼってゆくと、やがて大きな社《やしろ》の前に出た。鳥居の間から、ひろい境内《けいだい》が見える。太い銀杏樹《いちょうのき》が、百日鬘《ひゃくにちかずら》のように繁っている。彼は石段に足をかけようとした。そのときふと背後に人の気配《けはい》を感じて、あとをふりむいた。
そこには、背広服をきた一人の青年が立っていた。ひどくくたびれたような顔をしている。色艶《いろつや》のわるい、むくんだような顔、下瞼《したまぶた》はだらりとたるみ、不快な凹《へこ》みができている。そして帽子の下からのぞいている大きな眼だ。その大きな眼が、宮川をじっと見つめていたのである。
「うむ」
宮川は、なんとなく襲《おそ》われるような気持で、おもわず呻《うな》った。
気のせいか、その怪《あや》しげなる男も、なんだかぶるぶる身体をふるわせているようであった。
宮川は、石段をふんで、駈けあがった。そして境内へどんどん入っていった。社殿《しゃでん》の後に駈けこんで、そこでおずおず、うしろをふりかえった。怪しい男は、見えなかった。まず助かったと、彼はどきどきする心臓をおさえながら、社殿のうしろにベンチをみつけ、それに腰を下ろした。
「彼奴は何者だろうか?」
彼はまだはあはあ息をきりながら、頭の中に今見た怪しい男の顔付を気味わるく思いうかべた。
彼の腰をおろしているすぐ前に、誰が捨てたか、地上に捨てられた煙草の吸殻《すいが
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