かに自分の筆蹟にちがいない。だが、この手帖は、さらに見覚えのない品物だ。一体どうしたというんだろう」
彼は、すっかり気持がわるくなった。
たしかに自分の筆蹟にちがいないのに、その手帖には見覚えがない。こんなふしぎなことがあろうか。
その疑問を解くために、彼はつとめて気を鎮《しず》めながら、手帖に書かれた文句をよみはじめた。
こんなことが書いてあった。
「五月××日。天気がいいので、堀切の菖蒲園《しょうぶえん》へいってみる。かえりに、浅草《あさくさ》へ出て、映画見物。家へかえったのは午後十一時半だった。部屋の鍵をあけたとたんに、背後《うしろ》から声をかけられた。ぷーんと髪の香《におい》がした。Yだ。Yが立っている。しかたがないので、部屋へ入れる。かえれといったがかえらない。無理やりに泊《とま》ってゆく。困ったやつだ」
彼は、これを読んで、溜息《ためいき》をついた。そして首をふった。
「へえ、どうしたというんだろう。一向に覚えがないが……」
この日記によると、Yという女が、夜おそくまで、部屋の外に立って、主人公のかえりを待っていたというのだ。女は主人公が部屋の錠《じょう》をあけたときに、声をかけた。そして無理やりに泊っていったという。これでみると、Yという女は、気の毒にも主人公から冷淡《れいたん》にあつかわれている。Yという女の姿が見えるようで、たいへんいじらしくなった。
それでいて、この日記の主人公なる者が、一体誰なんだか分らないのだった。
その主人公こそは、彼――宮川宇多郎なのであろうか。
「いや、断じて、自分ではない。自分には、そんな記憶がない」
記憶がないから、自分ではないと思ったものの、この手帖は自分の机のひきだしの中に入っていたことといい、その日記の筆蹟が、たしかに自分のものであることといい、じつに気持のわるいことに覚えた。一体、どうしたというのだろう。
彼は、さらにその手帖の頁をくって、先を読んだ。
「五月××日。Y、夕方暗くなって、かえってゆく。もうこれでお別れだという。もう諦《あきら》めたともいう。どうかあやしいものだ。いつもその手をつかう。かえったあとで、座蒲団《ざぶとん》を片づけると、下から私の写真がでてきた。その写真は、ずたずたにひき裂いてあった。さっき私の写真を一枚くれと熱心に頼んだものだから、つい与えたのだが、Yのやつ、持
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