す。それにちがいありません」
博士はひどくせきこんで、なるべく早く宮川を納得《なっとく》させようとしている。
このとき宮川はいった。
「博士。私はちかごろになって気がついたんですが、いろいろな記憶を失っているんです。どうも気持がわるくてなりません。博士、どうぞ教えてください。あの黄風荘《こうふうそう》というアパートにいた前、私はどこに住んでいたのでしょうか。どうか、その前住居《ぜんじゅうきょ》を教えてください」
博士は、首を大きく左右にふって、
「ねえ宮川さん。あんたはつまらんことを気にしていけないですよ。脳の手術はもうすんだが、まだ養生期《ようじょうき》だということを忘れてはいけないです。もうすこし落付くと、きっと記憶は元のように戻ってきます。それまでは、辛かろうが、一つしんぼうするのですな」
矢部の愛人
宮川の生活は、それ以来さらに退屈を加えたようであった。
或る日、例の青年矢部が金をもらいにやってきたとき、彼はいつになく、手をとらんばかりにして矢部を室内に招《しょう》じ入《い》れた。
「よく来たね。矢部君。きょうは君に八十円ばかり用達《ようたし》をしてもいいと思っていたところだ」
「ほんとですか」
矢部は、すぐれない顔色に、微笑をうかべていった。
「ほんとだとも。そのかわり、僕のどんな質問に対しても、君は正直にこたえるんだよ。いいかね」
「ははあ、交換条件ですか。ようございます。八十円いただけますなら、当分栄養をとるのに事かきませんから。なんですか、質問というのは」
それを聞くと、宮川はにやりと笑い、
「大いによろしい。いや、質問といっても、大したことじゃないんだ。君はちかごろ、美枝子《みえこ》さんというひとに会うかね」
「美枝子にですか。いや、会いません。こんなあさましい窶《やつ》れ方《かた》で会えば、愛想《あいそう》をつかされるだけのことですからねえ」
「それはへんだね。そんなに永く美枝子さんに会わないでいられるとは、おかしいじゃないか。君の愛情が冷えたのではないか」
「そういわれると、すこしへんですがね。第一ちかごろ健康状態もよくないことも、原因しているのでしょう。質問というのはそんなことですか」
「いや、もう一つあるんだ。その美枝子さんというのは、丸顔のひとで、唇が小さく、そして両頬に笑《え》くぼのふかいひとじゃないかね」
前へ
次へ
全16ページ中11ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
海野 十三 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング