「ああ、そのとおりです。あなたは、どうしてそれを知っているんですか」
「いや、この前いつだか君から話をきいたことがあったじゃないか」
と、宮川は嘘言《うそ》をついた。美枝子のことをなぜ宮川が知っているか。それをいえば、矢部はきっとびっくりするに相違ない。
「どうだい、矢部君。これから二人して、美枝子さんがどうしているか、その様子をそっと見にいってみようじゃないか」
「そ、そんなことを……」
と、矢部は尻ごみしたが、宮川はおっかけいろいろといい含めて、ついに矢部をひっぱり出すことに成功したのだった。
矢部の案内で、宮川は丸の内の或るビルの前へいった。
宮川は、新調の背広に赤いネクタイをむすんで、とびきり豪奢《ごうしゃ》な恰好をしているのに対し、矢部は例によって、くたびれきった服に身体をつつんでいた。
やがて時刻とみえて、ビルの横合《よこあい》の出口から、若い男や女が、ぞろぞろと出てきた。
それを見ると、矢部はすっかり怯気《おじけ》づいて、逃げてゆこうとした。宮川は、その手をしっかと握って、自分の傍にひきつけて放さなかった。
宮川は、ビルの中から出てくるおびただしい女たちの顔を、いちいち首実験していたが、そのうちに、矢部の手をぐっと強く握って、
「おい、あの女だろう。空色のジャンバーを着て、赤い細いリボンをまいた黒い帽子をかぶっているあの女――ほら、いまハンドバッグを持ちかえた女だ」
「そうです、美枝子ですよ。宮川さん、放してください。僕は美枝子に会うのはいやだ」
「そんな気の弱いことでどうするんだ。ほら、美枝子さんは、こっちへ来る」
そういっているとき、美枝子の視線が二人の男の方に向いた。そしてはっとした様子で、足早《あしばや》にちかよってくる。矢部は、宮川の手を力一杯ふりきって、逃げてしまった。
後に宮川はひとりで立っていた。彼の眼は、いきいきと輝いていた。まるでゲーテが、久方《ひさかた》ぶりで街で愛人ベアトリッチェに行きあったような恰好であった。
「ああ美枝子さん」
「まあ、どなたですの」といって女は宮川につかまれた手をふりほどきながら、「ああ、あの人をつかまえてください、矢部さんを」と身体をもだえた。
「ああ、矢部君のことですか。彼はあなたに会うのが恥《はずか》しいといって逃げたんです。だが、私にまかせて置きなさい。わるいようにはしない」
「ま
前へ
次へ
全16ページ中12ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
海野 十三 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング