すね。それでは、本当に安心していて、いいわけですね」
宮川は、はじめて気が落付くのを感じた。
その後、矢部はちょくちょく宮川のところへやって来た。そしてそのたびに、五十円だとか六十円だとかを、せびっていった。金さえもらえば、矢部は案外おだやかな人物であった。宮川は、ようやく本当に矢部に出会《しゅっかい》以来の落付をとりもどすことが出来たのだった。
宮川が、矢部事件による緊張から解放されると、こんどは生活が急に退屈になってきた。彼は女の友達が欲しくなった。
彼は思い出して、机のひきだしの奥から、例の青い革表紙《かわびょうし》の手帖をとりだして、にやりにやりと笑いながら、いくども読みかえした。大したことも書いてないながら、その簡単な日記文に現れるYという女のことが、妙に懐《なつか》しがられてくるのだった。
このYという女は、その後どうしたろう。この手帖の主人公と別れてしまったようだが、その後どうしているのであろうか。とにかく、このYという女は、手帖の主人公をたいへん恋《こ》い慕《した》っているのだ。その主人公の筆蹟が、彼の筆蹟とおなじであるのは、一体どうしたわけであるか。
この疑問をとくため、彼は或る日博士をたずねて、この問題を出した。
「えっ、そんなものがあったかね」
「ありますとも。ここに持ってきました」
彼は青い手帖をとりだした。
博士は、深刻な顔をして、手帖の頁をくっていたが、俄《にわか》に笑いだした。
「ああ、これは儂《わし》のところの助手で谷口という男の手帖ですよ」
「でも、その手帖は、私の机の中にあったんです」
「そ、それですよ。じつは、谷口を、君のアパートの引越のとき、手伝いにつれていったんです。そのときポケットからとりおとしたのを、他の誰かが拾って、宮川さんのものだと思って、机の中に入れたのでしょう。いや、それにちがいありません」
「それはおかしいですね。筆蹟が、私のにそっくりなんです」
「こういう字体は、よくあるですよ。なんなら谷口をよんでもいいが、いま生憎《あいにく》郷里《きょうり》へかえっているのでね」
「私は、そのYという女に会いたくてしかたがないのです」
「えっ、それは駄目だ」と博士は目をむいていった。
「駄目です、駄目です。他人の女にかかりあってはいけない」
「本当に、そのYというのは、谷口さんの愛人なんですかね」
「そうで
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