ている方がましだという頑強な反抗に遭い、温和《おとな》しく階下へおりて彼女の代りに店の窓をあけたりしていると三十分も経ってから、この三階建てのビルディングが崩《くず》れるような音をたてて、四人の生残り女給が悲鳴と共に駈《か》け下《お》りて来た。その恰好は話にも絵にもならない。滑稽《こっけい》と悲惨とが隣り合わせに棲《す》んでいたことにはじめて気がつくような異常な光景だった。その四人の女給は鈴江、ふみ子、お千代、とし子でみんな古くから居る連中ばかりである。
 三階へ行ってみると、表の窓際に床をとって寝ていた春江が、仰向《あおむ》けに白い胸を高く聳《そびや》かして死んでいた。その左の乳下には一本の短刀が垂直に突《つ》っ立《た》ち天《あま》の逆鉾《しゃちほこ》のような形に見えた。どす黒い血潮が胸半分に拡がりそれから腋《わき》の下へと流れ落ちているらしかった。右の乳房はどうしたものか、彼女の右の手で堅く握りしめていた。しかし全体の姿勢から言って、彼女は即死を遂げたものの如く、蒲団の中に行儀よく横たわっていた。彼女の死後、犯人は蒲団《ふとん》を頭の上からスポリと被《かぶ》せて行ったので、一層発見がおくれたものらしい。だからその朝一度その室を訪れた圭さんも気がつかなかったものと考えられる。
 警視庁の活動は、はじまった。死体は即刻《そっこく》大学へ廻され、剖検《ぼうけん》された。結果としてその早暁《そうぎょう》二時と三時との間に殺害《さつがい》されたことが判明した。死因は刺殺《しさつ》で、刃物は美事《みごと》に心臓に達している。尚《なお》死の前後に暴行をうけた形跡が存在しているが、被害者の肢勢《しせい》から考えて死後に於て加えられたものとする方が理窟に合う。勿論《もちろん》、兇行原因は痴情関係《ちじょうかんけい》によることは明らかである。しかしながら殺人犯人の見当は中々はっきりついては来なかった。第一、証拠が全くのこされていない。短刀の柄《え》にも指紋はない。被害者は無抵抗で即死したような訳だから、犯人の着衣《ちゃくい》の一部をもぎとってもいない。死体の右手は右の乳房から離され、一応|掌《て》の中を改めてみたが、此処《ここ》にもなんの異常もなく、春ちゃんは単に乳房を握りしめていたというに過ぎないと観察された。圭さんと吉公は、厳重な取調べをうけたが、勿論ボロを出さずにすんだ。しかし二人の現状不在証拠法《げんじょうふざいしょうこほう》はすこし根拠が薄弱である。というのが、圭さんの方は当時、鰥夫暮《やもめぐら》しで、二人のよく睡る子供と一緒に睡っていたというし、吉公の方は一時就寝、十時起床で、その間、寝ていたには相違《そうい》ないが、それを証明するに途《みち》のない独《ひと》り者《もの》だった。女たちも調べられたが、皆々昼間の疲れで熟睡したと申立てるばかりで、春ちゃんが殺された前後についての陳述《ちんじゅつ》に、これぞと思う有力な事実が判明しなかった。ただふみ子という皆の中では一番年の多い女給が申立てたところによると、店がひけてから三丁ほど先に在るカフェ・ネオンの別荘(というと体裁《ていさい》がいいが、その実、このカフェの持主の喜多村次郎《きたむらじろう》の邸宅《ていたく》にして同時に五人ばかりの女給が宿泊するように出来ている家で、実は彼女等の特殊な取引が行われるために存在する家だともいう)へ着物のことで行き、その用事がすんでカフェへ帰って寝たのが一時半だった。そのときに春江はじめ四人の女給はもう寝ていたが春江の寝すがたが莫迦《ばか》に細っそりしているので不思議に思い、側《そば》によってよく改めて見ると、春江の身体は無く寝衣《ねまき》や枕が身体の代りに入っていたと述べた。これは警視庁にとって唯一の参考材料となった。春江はどこかへ行って一時半には寝床にいなかった。春江はその時刻、どこでなにをしていたろう。
 春江の客や情人《じょうじん》の探索が、虱《しらみ》つぶしに調べられて行った。岡安巳太郎や、岩田の京ぼん[#「ぼん」に傍点]も、調べられた一人だった。これも自宅に於て睡眠中だったそうで、格別材料になるようなものが発見せられなかった。事件は文字どおりに、迷宮《めいきゅう》へ陥《おちい》って行ったのである。
 春江の初《しょ》七|日《か》が来た。その夜、カフェ・ネオンの三階に於て、またまた惨劇が演ぜられた。不幸な籤《くじ》を引きあてたのはふみ子という例の年増《としま》女給だった。殺害状況は、前の春ちゃんの惨殺《ざんさつ》の時のと、まるで写真にとったように同じ状況を再演した。強《し》いて相違の個所を挙げるならば、こんなことになる。
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一 同室に就寝していた女給は、前回と同じ顔触れの鈴江、お千代、とし子の三人と外《ほか》に清子、かおるの二人の新顔《しんがお》が加わっていた。
二 被害者ふみ子の身体には暴行の跡が発見されなかった。
三 被害者ふみ子は、春江の場合の如く右手で右の乳房を握ってはいず、右手は正しく伸ばされていた。
四 被害者ふみ子の寝床は、春江の場合に於けるが如く、表向きの窓際にはなく、それと九十度だけ右廻りに廻った壁ぎわに寝ていた。
(因《ちなみ》に、春江の位置に寝ていたのは、鈴江であった)
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 この外の点は、皆おなじ事で、不思譲なことに、殺害の時間も、短刀の大きさも、致命傷の位置も同じで、ただ創痕《きずあと》の深さが、すこし深いように報告されていた。
 第二の惨劇の日につづく一両日の間に、僕の耳に入った特殊事項について二三のことを述べて置こう。
 なに、君はこの事件に、どんな役目をしていたのだか言えというのかい。それは判りきっているじゃないか。どうせ終りまで聞けば、判るにきまっていることなのさ。僕が誰だって、この物語の進行には一向|差支《さしつか》えないわけじゃないか。
 鈴江が、捜査係長に訊《たず》ねられた一事《いちじ》がある。それは第二の犠牲者たるふみ子の肩のところに貼ってある万創膏《ばんそうこう》について生前《せいぜん》ふみ子が、おできが出来たとか、傷が出来たとか言っていなかったかという質問である。鈴江は知らないと答えた。同じ質問が次にお千代に発せられた。お千代は細い引き眉毛《まゆげ》をしかめながら何か思い出そうとしているようだったが「ふうちゃんの首のところには、おできも傷もなかったようですわ、あの日のおひるっころ、ふうちゃんと蛇骨湯《じゃこつゆ》へ一緒に入ったんですがそのときお互様《たがいさま》に、洗《なが》しっくらをしたんですのよ。わたしはふうちゃんの首のところに小さい黒子《ほくろ》があるのを見付けたものですから、ちょいとおイタをしてやれと思ってふうちゃんの頸《くび》んとこをギュウギュウこすってやったんです。ふうちゃんは、あんたいたいわよ、血が出るじゃないのといいましたから、でもこの小《ちい》ちゃい黒子が、どうしてもとれやしないのよと言って笑ったんですの、そのときによく注意していたと思いますが、別に傷もおできも見えなかった、ような気がしますけれど……」と陳述《ちんじゅつ》した。清子、かおる、とし子の三人も知らないと、順々に答えた。
 この訊問《じんもん》が終ったあとで、係官の間に、こんな会話が行われるのを聞いた。
「ふみ子の首の万創膏《ばんそうこう》をとって見たが、穴が相当深くあいていた。沃度丁幾《ヨジウム・チンキ》をつけてあるが、おできのあとともすこしちがうような気がするんだが、大学の鑑定事項の中へ、穴ぼこが意味する病名を指摘するように書き加えて置いて呉れ給え」
「不思議ですな、前の春江の場合にも、やっぱり首のところに万創膏が小さく貼ってあったじゃありませんか?」
「なに、それは本当か。――ウーンすると、ことによると犯行に関係ある穴ぼこかも知れない。だがそうなるとあの万創膏は犯人が貼付《ちょうふ》したことになるわけだ。さあ、失敗《しま》った。あの万創膏を捨ててしまった。あれを顕微鏡にかければ、たとえ犯人が手袋をはめてあれを貼りつけたものとしても、ゴムがペタペタしているために、手袋の繊維をすくなくとも数十本は喰《く》わえこんでいる筈だ、それから手懸《てがか》りが出るかも知れなかったのだ。莫迦《ばか》なことをしてしまった」係長のなげきは、なかなか一と通りではないようにみえた。
 もう一つの面白い事実は、ふみ子の死んだという日のお午下《ひるさが》りに、岡安巳太郎が、ヒョックリとカフェの扉《ドア》をおして入ってきたことだ。警視庁では、相続いて起った殺人事件に証拠材料があまりに貧弱で、考えようによっては、犯人の容易ならぬ周到《しゅうとう》ぶりが浮んでみえるようなので、なにか手懸りを得るまでは、このカフェ・ネオンに営業を休んではならぬと言い渡してあった。そしてふみ子の死体は、別荘の方で葬儀《そうぎ》万端《ばんたん》を扱うこととし、カフェ・ネオンはいつものように昼間から、桃色の薄暗い電灯が点《とも》っていたのである。なにも知らぬ岡安は、はりこんでいる刑事の間を、すれすれにくぐりぬけてきたことも知らずに、いつもの定席《じょうせき》に腰を下した。すると奥から鈴江があたふたと出て来るなり岡安の前へペタンと坐って、「オーさん、大変よ。きいても大きな声をだしちゃいやあよ。今暁方《けさがた》、また、ふうちゃんが殺されちゃったの。ええ、三階でね、もうせんのと同じ手で……。だもんで、うち[#「うち」に傍点]の外も(と、あたりに気をくばりながら特に声をひそめて)中にも刑事が張りこんでいるわ、あんた、変な声なんか出さないでちょうだいね」とやさしく睨《にら》んだ。一体、鈴江という女は、春ちゃんの死後そのいいひと[#「いいひと」に傍点]だった岡安と馬鹿に仲よくなったようだ。この女は、半玉《はんぎょく》みたいな外観を呈しているかと思うと、年増女の言うような口をきくことがあった。恐らく顔や身体の割には、ずいぶん年齢《とし》をとっているのじゃないかと思われた。今のところ、岡安も春ちゃんのことは、夢のように忘れちまったらしく、鈴江と肝胆相照《かんたんあいてら》している様子は、側《はた》から見ていて此のような社会の出来ごととしても余り気持のよいことじゃなかったのである。
「すうちゃん。けさ、ふうちゃんが殺された時間は、いつ頃だったの」
「さあ、よくはわからないけど、二時と三時との間だという話よ。どうしてサ」
「じゃ二時二十分――たしかに、あれだ」と岡安は急に眼を大きく見開いたまま、ふるえる細い手を額《ひたい》の上へ持って行った。「すうちゃん、このカフェは呪《のろ》われているんだよ、君も早くほかへ棲《すみ》かえをするといい。僕は見たんだ。たしかに此の眼で見たんだ、しかも時刻は正《まさ》に二時二十分――丁度《ちょうど》ふみちゃんが殺された時間だ」
「オーさん。あんた知ってんの、言ってごらんなさい。言ってよ、なにもかも、さ早く」
「いや、怖ろしいことだ。君、このカフェ・ネオンの三階に懸《か》かっている電気看板は、ただの電気看板じゃないんだぜ。あいつは生きてる! 本当だ、生きてる。あの電気看板には人間の魂がのりうつっているのに違いないんだ。きっと、あいつ[#「あいつ」に傍点]だ」
「なにを寝言《ねごと》みたいなことを言ってんのよ。早くおきかせなさいな、けさがた、あんたの見たということを……もしかしたら、オーさんは、けさがた此処《ここ》の家へ……」
「あの電気看板は、早く壊《こわ》してしまうがいいぞ。おい、すうちゃん、あの電気看板はいつも桃色の線でカフェ・ネオンという文字を画《えが》いている。あれは普通の仁丹《じんたん》広告塔のように、点《つ》いたり消えたり出来ない式のネオン・サインなのだ。そしてあの電気看板は毎晩、あのようにして点けっぱなしになっている。僕んち[#「んち」に傍点]はここから十三丁も離れているが、高台《たかだい》に在るせいか、家の屋上からあのネオン・サインがよく見える。それは朱色《しゅ
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